遠い記憶をたどってつれづれなるままに

「猿橋尋常高等小学校に通って」 飯吉 義夫(1924〜2004)

瑞穂の春

3mも4mも積もった雪も4月ともなれば暖かい風が吹き、東関山をはじめ、段々田んぼの畔にふきのとうが柔らかい芽を出し始め春を告げる。
東関、猿橋の山は残雪の残っている所と、雪が消えて黒い山肌をむき出しにして春を待っている姿は雪国でなければわからない。春を待つ心は万物の全てである。
村の中を歩く人々の姿もなんとなく弾んでいるように見える。
思わず糸魚川の相馬御風先生の作った「春よ来い、早く来い、歩き始めた・・・」を口ずさんでしまう。
猿橋で一番先に黒い土が出るのは「中の家」の前である。菱元屋で購入したコマ(鉄枠のこま)を男の子らが持ち寄り、土の感触を確かめながら遊んだものである。
その頃、男の子、女の子は仲間を集めて平(たいら)ごとに花見の相談が持ち上がり、数組が誕生する運びとなる。

4月3日は瑞穂の花見

毎年4月3日は当地の花見である。(もちろん桜は咲いていない)仲間グループ、隣近所の人々が男女別々に東関山、向い山、わだいら等の山々を使って、思い思いの料理を作って楽しむ会である。
(一例)東関山の水のある田んぼの端の少し広さのある場所に、前日もしくは前々日に下見に行き、芝(ぼよ)を集めて準備をする。当日、グループ全員が8時半ころ集合場所に集まり、リーダー指導のもと、一人10銭を徴収、菱元屋で醤油、油揚げを買い、リーダーを先頭に全員ウキウキしながらメイン会場へ向かう。
目的地に着くと各係に分かれて相談したとおりに行動する。10時過ぎ炊飯準備にとりかかる。年下の子供たちは高学年の作業を見つめること1時間、出来上がるのを待つ。やがて楽しい食事会となる。
(各自持参するもの)米2合、卵2個(当時鶏は各家庭で飼っていた)、白菜、ネギなど、漬物少々、砂糖、箸、茶碗、鍋、やかん、しゃもじ等
(メニュー)桜飯、卵焼き、野菜炒め、みそ汁など
満腹になった後は、メダカを捕ったり余興(活劇、歌)、兵隊ごっこ、ままごと等を楽しみ、また来年を夢みつつ帰路につく。
夜になると家人と今日一日の楽しかったことを話しながら眠りについた。

別れの3月

当時、高等科2年、尋常科6年が一つの学校で学習したものであった。猿橋尋常高等小学校は、8年間続けて勉強したが、長沢や平丸にはその上もう1年間、高等3年という制度があって、猿橋校からもそちらに行く人が少しいた。6年から行く新井農商学校3年間か旧中等学校5年間か6年で卒業して職業につくか、いくつかの進路があった。

進級の喜び

そんな別れの3月が過ぎると山々の雪の形も変わってくる。南側は残雪なく、北側は2倍も3倍も多く残っている。新学期が始まると70人もの生徒が複式で勉強している教室は、蜂の巣をつついたようにざわめいている。その教室にボスが生まれるまでは、喧嘩あり、仲間外れありで、大変な空気が教室内に漂っていた。しかし、一つ作業になると一人一人の生徒は勤労意欲旺盛なものがあった。校庭に残雪の多いときは、3年生以上の生徒が各自シャベルを持参し、高等科の生徒が音頭をとって、排雪作業を実施。一日も早く土を掘りだして、地上で遊びたい気持ちでいっぱいであった。その頃の遊びは「手つなぎ鬼ごっこ」。

バスがやって来る。

4月の上旬ともなれば待望のバスが、新井営業所からやって来る。「稜線の低い平坦部に乗り合い自動車が走ってきた。」という情報が小学校に持ち込まれると家庭にも直ちに流れ、もうすぐバスが来るという話になり、新井まで歩いていがなくなるので、村人も一日千秋の思いで待っている実情であった。
今日、バスが楡島神社まで来たという情報が入ると、少年少女はわざわざ楡島まで歩いて出かけ、乗合自動車にじかにさわり確かめて、家人に様子を話したものである。
この頃の赤十字少年団はよく活動したものであった。高等科の生徒が先頭に立ち、下級生の指導をしていた。自分たちの部落の除雪の日時の連絡が赤十字少年団から入ると作業準備をして、当日消防団と協力して除雪作業等の奉仕活動を行い、一日も早く猿橋の停留所へ車が来るよう頑張ったものでした。

大人の春

春を告げる淡雪の頃になると、囲炉裏の端からだんだん遠のき、女性は着物(農作業用)を縫い、藁仕事の総まとめに入る頃になると、大人の春がやって来る。
3月上旬に入ると村中の男の人は春一番の外仕事にとりかかる。それは「山ぞりつくり」、「ぼよ運び」、「かや運び」、「杉、松の原木運び」。
山男たちは雪道を作り、山奥に入り材木を運び出す。その姿は雄々しく子供ごころにも、農村で生まれた男子であるとつくづく思った。
(男たちと山ぞり)
尋常高等小学校を卒業すると、すぐ村の青年団に入り、先輩から大人としての教育を受け社会人となっていく。高等科を卒業した年はまだ14歳(現在の中学2年生)ではあるが、大人と一緒になってもろもろの仕事や娯楽を楽しんだものである。山ぞりの作り方も、家人から教えてもらうのではなく、村の青年会の器用な人から組み立て方や縄の縛り方など指導を受け、一人前の男になって次代の人に受け継いでいく青年会組織であった。
春一番の仕事が終わると、いよいよ家族総出の葉煙草の作業に入る。瑞穂地区の8割以上の家が耕作していた煙草の苗床作りがはじまる。
(苗床の作り方)
場所を決め、2m以上もある雪を掘り、横約2m、縦7〜8mの全面積に桶(枠?)を作り、竹の棒を1m間隔に桶(枠?)にしばり、わらを編みながら巻き付けていく。その中に切藁を入れ、足で踏みつけ水をかけ、米ぬかを入れ、苗床が自然発酵するように尿を入れ、その上に土を盛り、自然熱を利用して発芽させる。電気調節ではないため時々失敗することがある。苗床の踏み込みは家族全員で行う実に大仕事であった。

男の人たちによる共有林の、ぼよ切り競争。

猿橋共有林のぼよ切り競争は、古い昔から行われていたらしい。その起源は不明であるが、六十有余戸の家庭が毎年期限と人員を定めて実行していた。
田んぼの土手に「もぐさ」の新芽が緑鮮やかに出始める3月下旬ころになると、共有林の山見が行われるようになる。共有林の役員が飯喰沢に入り、雪消えの具合、立ち木の発育の度合い等をみて、山入りの日や山入りの家庭の数等を決定する。
役員から各戸に連絡が入ると、家々では春山の準備に入る。人手が必要な場合は親類縁者を頼み、山入りの作戦を立て、やがて来る春山を待つ。いよいよ「ぼよ切り」の当日となり、一戸から二人の戦士が我が家の代表として飯喰沢のによ場に集まり、組合長のあいさつの後、一斉に目的地の山に入り、ぼよを切り出し始める。各戸から繰り出されたぼよ切り戦士は、男の腕試しとばかりに勇み立ち、春の戦いに入る。
山坂をよじ登り、山々に高らかにこだまする「なた」の音の続くこと一週間。まさに男の世界、技能オリンピックの感がする。一戸236羽(216羽?)分のぼよ切りである。
戦士の家族は山際に陣取り、戦士に栄養を与えるための手料理を準備し、山はまさにウグイスの谷渡りである。早い家庭では、5日目頃より家族総出で切り取ったぼよを束ね、ぼよ場までしょい出し(背負いだし?)に山へ行き、山は人又人の大賑わいであった。
その頃になると山菜が出始め、「ヤマナ、こごみ、ゼンマイ、ウド」等で、子供の活動場面が展開される。学校から帰ると子供たちは連れたって、前掛けに袋を持って、飯喰沢から板山方面に出かけ、夕食には旬の山菜料理で家族団らんの一時を過ごした。
(ぼよ切り場)や作業中の料理
・山汁:家から持参した味噌をワッパのふたにいれ、川を流れている0度くらいの雪解け水で溶かして、昼ご飯と一緒に飲む。
・ヤマナ汁:雪解け水を持参した鍋で沸かし、ヤマナと味噌で汁を作る。
・ウド汁:ヤマナの代わりにウドを入れる。
・かきなます:山竹を二つに割ったものを曲げて使い、持参した大根を曲げた部分で突き出して、大根刺身にして、味噌で味付け。

ぼよ切り作業場の昼ご飯になると、沢の谷間に数家族が集まり青空パーティが始まる。忙しい中にも一瞬の快楽を味わった。
ぼよ切りが終盤に入ると家族総出で「ぼよ場」から「によ場」へ運ぶ作業に入る。10〜12キロのぼよを一束にしたものをぼよ場から背負い、冬運搬しやすい場所に作った「によ場」に集め、積み重ねるのである。(によ積み)
14日間で終了するよう、遅れている家庭には終了した家が手伝ったものである。
ぼよ切り、によ積みが終了すると、いよいよ田畑の作業に入っていく。

大忙しの農耕作業の開始

朝は白々と東の空が明ける頃になると、父母は朝前仕事。夜は星をいただいて家路につく生活で、親子であっても対話する時間さえなかった時代であった。食事も三食家で食べるのではなく、昼はだいたい弁当を持参して田畑で食べた。
子供は学校から帰ると、先ず洗濯物を取り入れ、夕食の準備をし、お風呂を沸かすのが当たり前のことでした。親は子供の顔を見るのは、夕食後の1〜2時間くらいのものであった。
その頃の子供は労働力の一員で、特に女の子は妹や弟や近所の子供の子守りが当たり前で5、6年生になると一人前に使われたものである。
小学校も家の仕事が忙しいときは、欠席することは当然とされていたので、全員出席という日は、ほとんどなかった。農家でない家の子供が遊んでいる姿を見ると恨まやしくなり、ついその子と一緒になって遊び過ごしたこともしばしばあった。その夜は決まって今日さぼったことについて、父親から家族の前で叱られたものであった。
六月十日前後は、村中が田植えになり、どこの家でも子供までが作業員。大人は夜明けを待って、苗取り。年寄り(おばあさん)は朝食の準備。小学生は苗運びか幼児の子守り。親類中が集まりだいたい2日間で終了するよう日取りを組んで、遅い人でも6月20日には終了して春の節句を待つ。
四年生くらいになると男の子は牛、馬の鼻取り。田んぼの中を耕す牛、馬の速さに合わせて、胴みのを背中につけ、全身泥だらけになって歩く姿はまさに、九月八日のお釈迦様のお祭りで、頭から甘茶をかけられたようなありさま。雨の日などは寒くて体が震えてくるのがわかり、早くこの田んぼが終わらないかと思いつつ歩く時の切なさ。そんな時は空から雷ではなく、父親のドラ声が後ろから「同じ場所を何度歩くのか。上手に鼻取りをしろ。」と怒鳴られる。そういわれても、濁りきった田んぼの中は、どこを歩いているのかもわからない状態。感と土手を頼りに進む非能率的な作業方法で、少年期の春は「ハイ、ドウドウ」で過ぎた。学校の勉強は、学校だけで覚えなければならない農繁期の思い出である。
(春の節句)
6月20日過ぎ頃、餅をつき、前日採ってきた笹の葉に丸めた餅を包み笹餅として保存し、嫁、婿の実家に届けることが習わしになっていた。

川遊び

7月1日は夏の中頃で「きんぬき」といって、村中が休日となる。高等小学校の生徒は大体3年生になると長沢川、平丸川での遊泳は卒業して、関川か長沢川と関川の合流点にある大貝の関口のところで遊泳するのが習わしとなっていた。特に関川は今と違って水量が多く、川を横断するのには猿橋のほうから渡ると容易に行けるが、楡島から猿橋方向に向かうことは「せ」の流れが速く実に苦労したものであった。遊泳は何といっても「せ」を渡る方法を身につけないと水に流され、助けを求めなければならなかった。
また川で遊ぶときは各家庭からトマト、キュウリ、スイカなどを持参し、川に流して友達同士で取り合い、その後みんなで食べ、のどの渇きをとったものである。
パンツもはかず、砂遊びから始まった水との付き合いも、小学校4年生くらいになると川の瀬を利用して水に浮く方法を身につけ、友達、先輩の泳ぎ方を見たり聞いたりして、犬かき、クロールの真似くらいは大部分の生徒が出来るようになっていた。先輩、後輩の関係は非常に深いものがあった。増水などで川の流れに変化のある時は、上級生は下級生に対し、早く岸に上がるよう指示など出したので、私の幼少の頃、一人として川での犠牲者はなかった。遊ぶ時間は12時半頃より1時半か2時頃までであり、その後は5年生以上の子供は家庭の一員となり、農家の手伝いが大部分であった。

煙草作業

大人は一雨ごとに伸びた煙草の虫見か芽かきなど次々に仕事に追われ、7月の下旬ともなれば納屋に竹くぎを刺して煙草を編みこんだ縄を納屋中に段々につるし、火を焚き乾燥させる。天気の良い日には地面に煙草を編みこんだ縄を一本一本広げて乾かした。煙草は家中こぞって手伝いしなければ作っていかれない大仕事であった。
そんなことから子供たちは遊んでいても頭の中は常に「煙草の乾燥」でいっぱいであった。水泳中でも誰かが「雨だ。」というと、全員が我が家へ一足飛びに走って帰り、広場いっぱいに広げてある煙草を順序良く、葉先を傷めないように前の人と後ろの人が心を合わせ、雨にあわせないよう目の色を変えて上手に運ぶ努力をした。
「俺の家では煙草を売ってお前たちのものを買うのだから、みんなで協力して良い品で高いお金をとって楽しいお正月を迎えたいから頑張らなきゃいかん。」と親父に言われた。煙草は一家の財政を支えている守り神であった。

田んぼの水見

7月下旬から8月15日頃まで田んぼは給水しなければならない。子供は昼間は毎日のように水見を言いつけられ、朝食後田んぼに出ていき本用水まで歩いていき、水とともに歩いて水漏れを一つ一つ止め、本流から自分の田まで水を持ってくるのに2時間もかかり、「よし、これで上等。」と思っていると急に水量が減っている。大急ぎ水上まで登って行くと、早他人に水を取られている。お互いが家人から言いつけられているので、昼の水引はかくれんぼのお遊びをやっているみたい。田んぼに水がたまることはなく、家に帰ると父に「何してたのか。」とよく叱られたことは忘れられない。

盆太鼓の響き

青少年、いや老若男女はお盆を待つこと久しい。7日は小盆といって、お盆祭りの前夜祭的なものであった。新しい盆下駄を買ってもらい、あわせを縫ってもらい帯もそろえて13日を待っことになる。
13日はお墓参りで半日農休日である。12日までに墓掃除を終了し午前はみんなで労働。12時になると一斉に遊びに入り、子供は川に飛び、大人の女の人は洗濯、夕食前には家族そろってお墓参り。あちこちの墓は夕闇の中、灯りがともり、村は明るく輝き子供の話し声が響く。そのうち都会から持ってきた本年度始めの花火の音がこだまして、いよいよお盆気分がのってくる。
小学校の校庭から夜8時頃になると、「ドドン、ドドン」と太鼓の音が聞こえてくると、身も心もウキウキ。煙草農家の大人たちは納屋いっぱいに収穫した煙草を14日中に全部編まなくてはと張り切るが、子供の心は上の空であった。15日ともなれば女の子は新しい着物に赤い三尺姿で新しい下駄をはき、「カラン、コロン」と音を立てながら、村中を歩く姿は今でも目に浮かぶ。男の子は紙に茶色の三尺で、これも新しい盆下駄をはいての登場。アンチャ、アネチャの盆風景は、まさにこの地に生まれた幸せをかみしめている姿であった。子供たちは昼間からカンシャク玉を投げつけて、ドカン、ドカンと盆気分をもり立て、いよいよクライマックスの夜に入る。
当日は小学校の職員玄関の入り口に、太鼓が置かれ、子供までもバチを手に遊ぶようになる。学校の坂道を登る若者の話し声もはずみ、若い男女の浴衣姿もあでやか。対話の声は農村から来た人と、都会の声が入り乱れる中、中太鼓が鳴り響く。
やがて歌が流れ、だんだん踊り子の輪が大きくなり、はやしも高くなる。最初は「ままよ」から「佐渡おけさ」、「いたこ」と歌が流れ、輪はどんどん大きくなり村中に響く盆踊り。村の人はもちろん、隣近所の人で小学校の校庭は人又人でいっぱい。輪は3重、4重になり一大デモンストレーションの場となる。この行事は八月は15、16、17、20、27、28日。9月15、16日の夜で、長沢、平丸、大鹿、原通りの各地区より若い衆が集まり、お互いの地区を盛り上げるよう協力し合い、郷土の盆としていた。
(盆歌一例)
ままよ:
ままよでなぜままならぬ ままになる身はもたせたよ
盆の13日が2度あるならば 親の墓所へ2度参る
姉ちゃ来ね来ね餅もって来ねか わしのたもとに砂糖がある
いたこ:
いたこでんじまの川真ん中で 新井見納め小出坂で
松のつゆやら涙やら
佐渡おけさ:
雪の新潟は吹雪にくれて 佐渡は49里波の上
佐渡の金山この世じゃ地獄

ままよ(唄)はこちらから

お盆期間の子供の動き

1・2年生は親や近所の人と一緒に踊りに来るが、踊りも知らないので輪の中で鬼ごっこや友達同士で、つかめ鬼や気勢を上げてグラウンドを走り回って遊ぶ。
3・4年になると花火を上げたり、踊りの真似を始めたりして踊りを知る一方、なんとなく輪の周りを走り回っておどけている。
5・6年になると踊りの輪の中に入って踊りの真似をしている人と、見物をして、どこどこの人が面白く踊ったとか、音頭取りはどこどこの兄ちゃんとか人を見る目がついてくる。
高等科になるともう一人前に歌を覚えたり、踊りを覚えて輪の中に入って、楽しく一夜を過ごし、溶け込んでいる姿をよく見た。
農家にはそれぞれ馬、牛が飼育されているため、5・6年以上になるとお盆前に馬草を刈って、お盆中山に出かけなくていいように、ため草をして来たるべきお盆に備えたものである。高い土手や草刈り場を目当てに盆草刈りに入り、15日朝で終わるよう計画を立て実施し盆を迎える家庭ばかりであった。
9月に入り瑞穂地区も秋の諸準備に取りかかる。15夜はこの踊りを最後に、今年の踊りとお別れの時節は、もう浴衣では肌寒い位で、村の人たちは口では「大丈夫。」というものの寒くて、毎年早めに解散太鼓が打ち鳴らされて、「また来年も楽しく踊りましょう。」と約束しながら分かれ、来るべき秋の陣に飛び込む心構えができる村の若い衆であった。

収穫の秋

はぜ作りになるともう秋だ。9月下旬ともなると田んぼの中、立ち木の下にと、村のいたるところにはぜが出来、秋本番が近づいていることがわかる。早い人はもうそろそろ、稲刈りの準備に入る。田のかたさ、稲の穂を手に取って刈り取る
時期を判断する。すると家人は稲刈りガマを持ち出して、一斉に刈り取りを始める。刈り取った稲を一羽一羽に丸め、なとる。なとるとは、八羽を単位として一足といい、田んぼに立てかけて乾燥し、夕方になるとはぜ場まで運び、はぜに掛ける。
運搬は大体、背中に背負い運んだものであった。その頃は馬を使う人が少なく、人が汗をかきながら運ぶ姿は、牛か馬かの代役であった。一人が背中にそう(背負う)量は3〜5足位であった。多く背負うと足がブルブル震えるのがわかるくらいで、道には休息所があり、そこで縄を締め直し背中の荷物を丸くすると、少し軽くなったような感がする。
行列を作りながら家族全員で運ぶ背に夕日が差し込む。荷物はだんだん重くなり、はぜ場に着いた時の嬉しさは誰にも語れないほど嬉しかった。暗くなり始めると、運んだ稲を家族総出で一羽づつはぜに掛ける。他家からみそ汁のにおいがしてくると「あぁ、腹が減った。なんと良い匂いだろう。」と非農家の生活を心ひそかに羨んだものである。
小学校6年生で卒業した人はもう一人前に働かされ、高等科に入学した人は、それでも喜ばなければならないと自分を戒めた時代であった。
はぜ掛けが終わると時計は8時を指している。暗い電灯の下で、どんなまずい食事でも大変美味しくいただき、お風呂もそこそこに眠りについた。学校も1週間くらい農繁期休業となり子供も立派な農家の一員であった。

とうど呼び

今年1年中お世話になった農家ではどこの家でも「とうどよび」が始まる。12月8日頃より12月20までに行う行事であった。子供たちは、今年は親と一緒にどこの家に呼ばれていかれるかを家人に聞くと、毎年定まったように「うちの人の言うことをよくきかないと、どこどこの家では呼んでくれないよ。」と言われたものだった。子供たちは呼ばれていきたいものだから、当分の間は親のいいつけを守ったものだった。
(とうど呼び料理の一例)
皿盛り:ごぼう、人参、大根、里芋、油揚げの煮物など
つとっこ(藁で作った入れ物)の主たる品物:のっぺ、鯖の煮つけ、キャベツの辛し和え、野沢菜漬け、人参の白和え、白菜・ほうれん草のひたし、煮豆等を煮た油揚げで包み、つとっこでくるむ
(当日の日程)午後5時前後になると、お呼びしていたお客様が集まる。全員揃ったところで家長が1年間お世話になったことのお礼の挨拶をし、乾杯する。10分くらい炭火で暖めた静かな茶の間も、人息で温度上昇。男の人はお酒、ご婦人、子供は甘酒で体も温まり、茶の間はいよいよクライマックス。流行歌から追分まで飛び出し、子供は食後の遊びに入り夜はふけゆく。
10時頃になるとマント、角巻に頭巾姿で夜食のつとっこをぶら下げて我が家へと帰る。そんな時に出る話は決まって「狐の話」である。
(狐の話)
昔、昔どこどこのばあちゃんが「とうど呼び」に呼ばれて、夜遅く帰る途中、どこどこの坂にさしかかると、それはそれは美しい姿の女が現れ、
「ばあちゃん、この道をまっすぐ歩いて行きましょう。その荷物は私が持ってあげます。」と言われたのでつとっこを渡し、ほろ酔い気分で女について歩いて行ったけど、歩いても歩いても我が家につかない。気が付いてみると、もらってきたつとっこを狐に全部盗られてしまっていた。という話でした。狐は油揚げが大好きなため、人をよくだましたという話。エッチャ、ポン。
その当時灯りといえば、六角提灯やぶらぶら提灯にろうそくで火をつけ、先頭の人が提灯をぶら下げながら歩き、後ろの人がその灯りを目当てに石や木につまづかないよう注意して歩いたものであった。
この時期になると大人の人は大体、ミノブシをかぶって人の家に行ったもので、これは冷たい風もよけるし、手は唐傘を持つ必要もなく、いたって便利なものであった。
子供は学校へ行くとき、雨が降っていれば唐傘、カバンの代わりに風呂敷。低学年は1週間に1・2回。高学年は毎日のように弁当持参。中身は冬は野沢菜漬け、卵焼き、たくわんなど、夏は味噌漬けか梅干しが主であった。食事姿は風呂敷を頭からかぶり、下をしっかり押さえ、ほかの人に見られないように食べる人が多かった。
昭和10年頃は、男の子も女の子も着物を着て学校に通う子が多く、洋服の子供は少なかった時代。遊びといえば男の子は兵隊ごっこかかくれんぼ、国盗り、ボコペン、コマ回し、ブンゴー回し、石送り、じゃんけん遊びなど。女の子はままごと、お手玉等であった。

門松取り

畑に霜柱が何度か繰り返しているうちに、門松取りになる。学校で仲間と持ち物や山の方向を打合せして我が家に帰り着くやいなや、カバン又は風呂敷包みを上がり口に投げ出して、約束の物を持ちだして山へ急ぐ。「今日も勉強せずに山遊びか。」と家人に叱られないうちに逃げ出すことが肝心。山から松を持ってくると「おー、良い松だな。どこから切ってきた。」とほめられたものだった。

餅つきの頃

この地方では12月29日は餅をつかない習慣があった。その日以外は12月中どの日を選んでもよいとされていた。餅つきの方法は私が知る限りでは、3人つきから2人つきになり、あいどりが無く、お互い件に付いた餅を取り合いながらついているうちに、水を使わずに出来上がる。
小学校も12月25日頃より1月7日頃まで休みに入る。ついた餅を親父の兄弟姉妹に送るため、木製のミカン箱に詰め、雪道を関山駅か新井駅まで、背中に背負って送りにいったものであった。特に関山駅に持っていく場合は雪道は狭く、雪道がぬかり、大変苦労したものであった。小学校6年生でこのような仕事をすると、次の日は足腰が痛くてたまらなかったことを思い出す。

大忙しの大晦日

12月31日は朝から大忙し。家族総出で神棚の大掃除、年取りの準備のため酒屋に酒を買いに行き、正月中使う品物を菱元屋に買いに行く。午後ともなれば1年中のゴミを掃き清め、終わると仏壇と神棚に餅としめ縄、徳利を上げる。家によっては納屋、土蔵にお飾り(餅を丸くまとめたもの)と徳利を上げて1年の感謝と来年度の健康と豊作を祈り、正月の11日の蔵開きまで戸をしめたままで過ごす。
年取りの夜ともなれば、大人は酒、子供は卵酒等を持ち、家長から本年度のもろもろの結果の報告を受け、来るべき来年度も頑張るよう訓示を受けて乾杯、食事に入る。皿盛りが一人一人につき、一家だんらんの中で年取りご馳走(油揚げ、ごぼう、人参、大根のわん切り、昆布巻き等)を食べたりして楽しいうちに除夜の鐘を待つことになる。

瑞穂のお正月

戦前は村の諏訪神社に詣でる人は少なく、足跡もまばらであったが、1週間もすると、参道もよくなり、ぽつぽつとお参りに来る程度であった。祠の前に紙を敷き、餅を2・3日上げておく家が多かった。
村は正月気分がみなぎり、成人は昼前から赤い顔をして足ふらつかせて歩く。お嫁さんは新しい着物を身につけ、仲人さんや親類の家回り。連れて歩く子供も新しく美しい和服姿で訪問している姿もまた一段と目をみはるものがあった。
子供らは1月1日はこづかいを使うことを禁じられていたため、かるた遊びか花合わせ。雪があるときは「のけま坂」でスキー乗りかそり乗り。
日中のスキーはあまりすべらずスピードが出ないが、夕方になると雪が凍り付いてスキーの醍醐味を味わうことができた。猿橋中の子供がいっとはなしに集まり、滑り出すと、猿橋銀座に早変わり。子供の甲高い声が流れ、山の上から「いくぞー」。下のほうからは「滑ってよーし」。
「大人が道を歩いているからダメだ」。という声が交互してにぎやかになる。大ぞりに乗って「きんべいさ」の池に飛び込むことのしばしば。池の水で体を洗い、「きんべいさ」の囲炉裏で暖をとった子供の数は実に多かったと記憶している。
夕食が終わると家庭内ではかるた取りや花合わせ、ある人は平のとある家に集まり、大人からトランプの遊び方の指導を受けて次代の子供に受け継いでいった。終わるとお茶や砂糖湯、甘酒等を出していただき、落ちそうになって夜10時頃帰宅した正月が懐かしい。夜遊びの期間は正月の1〜3日間位であったと思う。。
正月7日は七草。万病を除くといって、都会では七草がゆを食べるそうだが、当地方では雑煮餅を作り、朝食としていた。餅を主に鶏肉、かまぼこ、野菜類(白菜、ぜんまい)こんにゃく等を煮込んだ汁を食べていた。餅は切り餅で焼いて汁の中に入れ正月3ヶ日は祝い料理として食べたものだった。
11日は蔵開きで休日。12月31日から閉めたままの蔵戸をあけ、お供えをおろして食べた。
1月15日は賽の神。私が覚えている限りでは、小学2年生の時、1回だけやったように思う。夕方ほら貝を合図に村中の人が相久保平の畑に集まり、短時間で終わってしまう花煙的なものであったと思う。その後いつ頃からか、盛大なものに変わっていった。
「15日は鬼の釜もゆるむ」と昔の人はいっていたが、長男が跡を継ぎ、弟たちは東京、名古屋方面に出稼ぎに出され、15日の小正月には帰郷を許された。都会から喜び勇んで帰る我が家は何といっても楽しい場所であったにちがいない。15、16日と兄弟、友と遊び、語らい都会に帰っていく姿は、何となく寂しそうに見えた。

(9ページ、収穫の秋の続き)

昭和10年代に入ると、リヤカーがどこの家でも購入され、背中の荷物の何倍も運搬するようになり、田んぼにおける稲の処理も大変楽になってきたが、はぜ掛けは以前と変わりなく、12〜13段くらいまで体全体で投げ上げなければならない実情で、はぜの上でかけている人の作業前方に投げるコツを心得ながら、汗か涙かわからない状態で働いたものであった。
稲刈りは早、中手、おくての大体3種あって、早生は9月下旬農林1号、中手は北陸、おくては(?)であった。
10月の中旬ともなれば刈り終わり、はぜの稲の乾き具合をみて稲こぎに入る。当時の稲こき機は、昭和一けたの時は足踏み機で稲をこき、もみを機会にあてると、乾燥した稲穂がサーと音を立てて落ちるときは非常に嬉しいが、稲穂がしけている時はなかなか落ちないで時間が倍もかかり大変だった。
その後稲こぎ機は電動機付きの機械となり、足で稲穂を落とすことが必要なくなった。
もみすりは土うすをまわしてモミを落としていたが、原道村祖父竹の人が発動機を持ってきて引いてくれるようになり、大変能率が上がり、5反百姓は半日もすればきれいに片付き楽になり、時代の進歩を感じた。もみすりは大体10月下旬から11月上旬であった。
高等科の生徒は学校を休むことが多かったがその理由は、家庭の手伝いが主で病欠はほとんどなかった時代であった。
それが終わると瑞穂は初冬の準備と秋の後始末に入る。山は錦に染まり、世の中が明るくなったような時期で、人の顔も家も見るものすべてが暖色になりすべての人が善人に見えてくる。
この風景も暫くすると落葉樹は木の葉を落とし、日中でも山は薄暗くなり、山肌を出した憂鬱な風景に冬近いことを感じ、どこの家でも、すだれで家を囲む作業にとりかかり始める。スダレはかやを縄で編み、玄関、でんじま、座敷等雪が吹き込まないようにするものである。冷たい風雨の前に準備しようと冬囲いに力点をおいた活動に入る。
(11ページ、

瑞穂のお正月の続き)

お正月が近づくと男の子は決まって、他人の納屋に入り、かくれんぼうが始まる。
猿橋の子供は標沢清宅の納屋で遊ぶことが毎年の年中行事であったように思う。誰が誘うでもなく、足が自然と納屋に向かうと、パッチでほんこをやり、秋は藁の中でのかくれんぼとなる。本家の人が来ると「やんども、またおらちの納屋で遊びやがってなんだ。」と大声で怒鳴る声を二階の藁の中で見つからないように動かず、音をたてないように静かにして帰って行くのを待つ時間の長さと、動かずにいるときの時間の長いこと。「早く家に行かないかなー」とドキドキしている子供たちであった。
ある時、本家の永志先生が来てがんぎのところで仕事を始めた。10人ばかりの小集団で遊んでいた小学生。例により藁と友達になってのかくれんぼ。一人として騒ぐ
わけにはいかない。静まり返った中で誰かが「ヘイ(おなら)」を、けたたましいの大きいやつを一発鳴らしたからたまらない。隠れていた全員が思わず笑いだしてしまった。すると永志先生、「こら、そこにいるやんども、出てこい。うちの藁が傷むと思ったらお前らか。今日は勘弁ならん。」と叱られたが誰一人出てくる者なし。
先生はいよいよ長期戦にはいる。納屋に隠れた一同も、出れば叱られるし、家庭に連絡されると家でも叱られるから、出られないで夜となり困った一幕もあったことがいまだに忘れることができない。

煙草耕作者と子供の関係

毎年12月になると耕作者の家はたばこの山になる。今まで納屋に入れてあった煙草を適度に乾燥させると家人の一人が専門に葉分けにとりかかる。忙しくなると昼夜の別なく電球の下で葉分けに入る。
この頃になるとだるまアンカを一つだいて、葉の品質と色を合わせ、等級をきめ。「ころ」にしたため、家中が煙草の山になる。葉分けする人が眠気覚ましに時には松前、甚句等を口ずさみながら作業していた大人をよくみうけた。
男の人は昼間はちがう仕事をやり、夜になると「わく」の中へ等級別にした大きい束を適当に小さく束ねて「ころ」作りをするのが一般家庭の作業であった。
納付の日が定まると各家庭は多忙をきわめ、動ける人は全員手を出すようになる。早口の人は12月中に新井専売所へトラック、又はリヤカーで前日中に運搬し当日を待つ。運搬は煙草耕作者が日時を決め、共同作業で自他の区別なく一心になり荷積みを行い、新井の町に出ていく。
昼ともなれば家から持参したおにぎりを持って小出雲の清野屋そば店に集まりコップ酒で前祝いを行うことが例年の習わしになっていた。作った煙草は2回で終りとなる。
雪が降った時は大変であった。耕作者は新井までの道を確保しなければならない。そこで道ふみ人夫を頼み、道がよくできるのを待って時間を打合せ、隊を組んで、鉄ぞりを引きながら新井までの10kmを運ぶことが大変負担であった。。。
人手の足りない家では人夫をお願いしなければならない時代故、人手を確保するため主人はあちこちに手配してやっとのことで、自作した煙草を運搬したものであった。
いよいよ当日になると主人は起きてくるなり「今日の天気は?」と尋ねることが口癖になる。その理由は煙草を売る場合は雨天と晴天と曇天では値段が異ってくるという。曇天の場合は専売所の鑑定員が色がよく見えて高い値で売れる。天候が良い方向に向かうと子供たちにもおこぼれが出ることになる。
父は良い値で買ってもらうと前々からお願いしておいた学用品、雑誌、スキー、月刊誌等を買ってくれてお土産が多くなるので、子供心にも高く売れることを祈らずにはいられない心境であった。
煙草が高く売れると家庭内は喜びにひたり、夕食時に父は「みんなの協力により高く買ってもらった。来年も努力しょう。」と誓い楽しい食事につく。食後になるとそれぞれの注文品をリュックから出して一人一人に手渡し、一年中の喜びを今宵一夜に集約したみたいである。
良い年ばかりではなく、安く売れた年には家中が暗くなり、家にいることさえいやになる位で、お願いした品どころではなかった。「今日は安買いで、みんなが努力したにもかかわらず悪かった。来年こそは皆でよい煙草を作り、高く売れるようにしょう。」と家族全員で誓いを新たに20ワットの下で暗い顔を見合わせるばかりであった。
2月〜3月までの1か月と少々のお休みで又始まる煙草作り競争。除雪を行う、苗床を作る、種をまく(熱がなく発芽不良)、発芽、間引きを行う、1本立てればいいのに数が多く大変。根気よく努力、この頃は天候悪く寒暖の差が激しい。寒冷紗をかけたり外したり、一日として手をかけない日はない。水をくれる、肥料をくれすぎないよう注意する。でも人に負けたくない。こんな心理が常に働く。
5月になると苗はだいぶ大きくなる。畑に移す時期になると家中の人の手を借りるときに入る。本畑での成長を祈るばかり。
田植えが終わると生薬。煙草はすくすくと成長し、7月ともなると土葉かきが始まる。8月の中、下旬ともなれば畑の仕事は終了し安堵する。その間に虫の駆除、立ち枯れの手入れと忙しい煙草作りであった。
一年間で煙草と縁のない月はほんの少し。でも煙草農家は黙々と耕作し、収入を高める努力は怠らない。絣の着物はヤニでいっぱい。手もヤニ。虫も手で取りつぶし、夏の暑さに負けることなく全身汗かヤニかの生活。秋、虫が鳴くころになると家中揃って煙草の葉ののし作業。その後サツマイモやカボチャを食べ、10時頃終了し風呂に入り、やっと自分の時間。子供心に大変だと思った。しかしこれを作らないとご飯も食べられなかった。
よくよく考えてみれば正月の行事の日取りとお盆の行事の日取りは大体同じ日の多いことにビックリした。似通った日を列挙すれば7月15日、16日、20日が同じ日取りである。20日正月をもって長かった正月行事も最後の雑炊餅で終りを告げる。
結婚前の女性たちは、毎年冬になると裁縫教室が小学校区に特設され、高等小学校を卒業すると全員が夏は田畑の作業を手伝い、冬12月1日から小学校の特別教室に集まり学習をし、女性としての教養を積み、研鑽した。
既婚の女性は家庭で裁縫をする。夜になると囲炉裏のある台所で縄、ぞうり、わらぐつ、スベ等々の制作に取り掛かる。それらの制作をするための一番先に行う藁たたき。猿橋では相久保の高松一義宅の水車小屋で一日中藁たたきを行い、家庭に持ち帰ると言葉では言わなくても「藁仕事が始まるなぁ」と心の中で思うようになる。
子供はこたつの中で勉強を始め、大人は台所で春から秋までを考えた仕事を冬中に働き出して春を待つこと久しい。
その頃の父母を中心とした大人は、よく働いた人達であったと今考えると感心する。
3月も中旬になると、気温も上がり、外仕事が男性を待っている。春の太陽にさしもの雪も一日一日と低くなり、雪がしまってくると「しみる」現象が現れる。と雪道作りにとりかかる。雪道作りは大事な作業。昨年の春先、切り倒した「ぼよ」又は風呂の火焚きをする場合の「割れ木」を山から運搬するので、雪を踏みしめて道を作り、そりの力を借りるため重いぼよ、割れ木を満載して運ぶ「山ぞり」が3月中の仕事でどの家でも行う作業であった。
急な坂道では「ぶしのぎり」をかって山坂を下り、平らなところは背に縄をつけて引っ張り目的地へ向かう風景はこの地方特有の春であった。
共有のかや運搬もぼよと同じようにして運ぶ。雪上ではどんな物であっても、遠くから運ぶことのできる便利なそりを使って働く人たちが多かった。人によっては、半月毎日そりを使っての作業をしていた人もいた。
3月24、5日になると小学校の卒業式。毎日月曜から土曜日の一時間目は卒業式の予行練習で「仰げば尊しわが師の恩」か「蛍の光窓の雪」の式歌練習。
この頃は朝は寒くてシミ渡りの絶好の時。早朝大ぞりを持参して雪上遊び。甲高い声を張り上げて「行くぞー、危ない、どけどけ。」と思い思いに叫び、寒さを吹っ飛ばして男の子も女の子も元気よく遊びまわった少年期が懐かしい。
6年で小学校を卒業していく人は、一学年に4〜5人位いたと思うが、茶話会を3・4年の教室と5・6年の教室を一緒にした卒業式場で行うと、女子の生徒はさみしさがこみ上げてくるようだった。日本中別れの3月、出会いの4月。桜の花の下で今年こそはと誓いも新たな4月も夢の間に過ぎていく。

猿橋小学校の思い出

昭和1ケタ時代に平屋の小学校に入学したが、時既に軍国主義が台頭して、子供の遊びは兵隊ごっこが段々と多くなり、東関の「ザライ草原」で、晴天ならば風呂敷に棒を持って山野を駆け巡ること。着物はぐみの木にひっかけぼろぼろにして母によく叱られた。
小学校は校長先生の宿泊する2階は1室で、その下は1、2年の教室。
70人近い子供が、阿部チウ先生から教育を受けた。生徒が多いため、教室は常に騒音で静かな学習など夢のまた夢であった。
3、4年は古市先生、若さにあふれた先生。先生の記憶は鴨沢永志宅の納屋騒動である。音楽の時間に男子全員が授業をボイコットし、例により納屋の中でかくれんぼをやっていると、古市先生がまさかりを持って、出てくるよう大声で怒鳴った。生徒は一人として出ることなく静まりかえっていた。先生はやがて小学校に帰って行き一安心したが、その後3、4年生で相談し謝りに行き、先生に厳重注意を受けたことが忘れられない。当時の音楽の先生は、岩沢孝子先生であった。
5、6年は池田先生。強烈な思い出は修学旅行。今の子供は野沢温泉まで歩いて行くなんて想像もできないであろう。
米1升を持参し、先生に引率されて平丸峠を越え、戸狩に出て野沢まで歩く。足には豆ができ、のどは乾き、大変苦しい遠足であった。一泊して帰路は長沢まわりで、そうめん滝まで来ると顎を出してしまったことが思い出される。池田先生の淡々とした歴史の授業が忘れられない。
高等科は小嶋校長先生で留守がちの学習であった。卒業と別れのさみしさをあじわった。
今考えると4学級で教師は校長を含め4人と小使いさん1人の学校で、のんびり勉強させていただいた。別に競争するでもなく時が解決の学校で。
冬になると運動場に大きなだるまストーブを2か所に置き、それも10時頃になると火は消え、後は手つなぎ鬼ごっこで体を温めるのが冬の生活であった。
夏の水泳は学校で行くことはめったに無く、友達同士で果物を持って水遊びに行くのが日課であった。
生徒の切磋琢磨の機もなく、その日その日を楽しく暮らす喜びをかみしめながら、自然の中に生きていた。
この頃、少年期を思い出さずにはおられず、手記を書いてみました。



(「猿橋尋常高等小学校に通って」飯吉 義夫 著 参考文献