農作業

長い冬が終わり、春の彼岸を過ぎて、暖かい南風が吹くようになると、雪深いこの土地でも、今年は間も無く、農作業が始まるのだと言う意識が湧いてきて、心忙しい作業が始まる。
この瑞穂地区では、太平洋戦争が終わる頃まで主たる職業としては、稲作りが主たるもので、これに付随して畑作が行われ、これらの農作業で貧しいけれども一家の生活が成り立っていた。
冬には藁仕事として、縄をなうとか筵を織るとか、農業に付随する仕事をして、夏の農作業の準備をする等の仕事があり、一部の人達が都会へ出稼ぎをする以外は、農家の主人が部落外に務めに出るという事は特殊な事であった。
稲を作ることが、即ち生活の糧を得ることであったから、沢水があり田圃に出来る土地が有る所で は、山の中腹までも耕して稲を育てていた。これら過去に沢田であった跡を、今でも彼方此方で山の中腹に見ることが出来る。
これらの沢田では平な所なら、何処でも田圃として耕作し、畳一枚程度の小さいものまであった。 昔からの田圃は地形に合わせて田の形が出来ている為に、一枚ごとに形が違い、かつ作業の能率 も悪かった。農作業の機械化が進むのに伴って耕地整理がなされ、一定の面積ごとに四角形の田圃に作り変わった。
この耕地整理(土地改良とも云った)は市街地の平野では昭和40年代から逐次始まり、近くの原通地区では昭和50年代に実施された。この瑞穂地区でもこの頃から工事が進められたものと思う。
反面、この頃から米の消費が少なくなって、米が余り、減反政策が進められ、沢田等の効率の悪い田圃は次第に耕作されなくなった。
稲が朝鮮早島を経由して日本の九州に渡来したのが、今から3千年程前であったろうと云われ、それから逐次北上して青森まで達し、全国で稲を作るようになるのには、約5百年かかったと言われる。 (稲の伝来についてはその時期について色々の説がある)
この稲作に付随して農作業に必要な鍬や鎌が一緒に渡来したと言われ、鉄作りもこの頃から行わ れるようになったと言う。後って鉄を精錬する技術も随分と昔から有った事になる。
然しながら、これらの鉄製の農具を使用出来たのは王侯貴族などの富裕層であり、一般的には木の鍬であり、本の鋤であったと云われている。けれども、奈良時代の初め頃には農業を促進する為に、各農家に鉄の鍬が一丁づつ支給されたと言う。そしてこの頃になると既に鎌も有った。
この時の鉄は木の鍬の先に、鉄を節約する為に、鉄の刃先を取り付けただけの物が使用された、 これに似た鍬が昭和になっても、この付近の水田地帯で使用されていたのを見た事があり。我々の鍬とは随分と変わった物だと感心したことが有る。
稲が日本に渡来した当初、種籾を芽だしせずに、直接田んぼに撒く方式であり、苗代で苗を育て て田植えをするようになったのは、今から1300年ほど前の奈良時代辺りであろうと言われるが。この時でも浸種せずに、芽の出ていない種を苗代に撒いていた。
そして播種前に浸種して種籾の芽だしをして、苗代を作るようになったのは900年程前のことであろうと云われる。昔は田の形に合わせ、曲ったままの列で稲苗を植えており。田んぼに糸を張り直線的に田植えをするようになったのは、明活の終わり頃になってからであった。そしてこの苗代方式と田植えのやり方は、田植機が入ってくる昭和40年前後頃まで続く事になる。
稲が渡来した当時、秋の稲の収穫は、稲の穂首を石の包丁で刈り取り、割箸の様な物の間に稲の穂を挟んで、引き抜くと言う事で脱穀していた。その後、穂首のみを刈り取っていると、稲の株や茎が田に残り、翌年の耕作に支障が出て来て問題となったのであろう、また、一般大衆にも鉄製の鎌などの農具が普及したのであろう、奈良時代には根元から稲を刈り取りするようになり、乾燥してから脱穀するようになった。
江戸時代なかばの元禄の頃に(1700頃)になると、千歯という櫛の刃を上に立てたような、脱穀器具が出来て、労働が軽減されると同時に稲の耕作面積も大いに進んだ。
明治時代も末になると、足踏み式の稲こき機が出来て作業能率が大きく向上した。それでも我々の子供の頃、昭和の初め頃でもまだ千歯の残骸を見ることがあった。
千歯では10アールの稲を脱穀するのに3日必要であったが、足踏み式の稲こき機では1日で済んだと言う。更に昭和の初めには動力式の脱穀機が有ったと言われるが、この瑞穂辺で使用されるようになったのは昭和40年前後であろうか。そして昭和の末頃になると、稲の刈り取りと同時に脱殻をする、コンバインが一般の農家においても用いられるようになる。
農業政策で最も大きな改革があったのは、昭和20年に始まった農地改草である。終戦後、海外からの引揚者で日本の人口が多くなった事や、当時は反当りの米の収穫量が現在の半分以下程度であり、国民が満足に食べるだけの米が無く、食糧難を来たしていた。
当時の占領軍最高指令部はこの原因は農地の封建制度から来る、農民の生産意欲の低下にあると判断して、農地制度の改草に乗り出した。
即ち特定の数少ない財産家が多くの土地を所有しており、多くの農民は、これら財産家の土地を借りて耕作する小作農民が多かった。この瑞穂地区においても、昭和10年頃に、自分の土地だけで生活できる米を収穫できたであろうと思われる者は、3分の1から半数以下であったで有ろうと思われる資料がある。
当時の反当収穫量は4俵程度であり、収穫料の略半分を地主に収めるのが一般的であったが、この瑞穂地域は土地が少ない事もあり、他所の地域よりも比較的に小作料が多かった。後って小作農の生活は随分と強いものであった。
参考資料として次のものがある。
大正5年(1916)の上郷村の作付け面別として132,0反、米の収穫2,244石、反当たり1.7石の収穫であり、この時の自作田は14.6反、小作田は101.1反、残りが自作田も有ったが小作をしていた。そしてこの時の小作料は平均1,16反であった。(中頸城郡是)
占領軍最高司令部はこの封建制度を無くする為に、特定の財産家の土地を小作者に払い下げて、農地の所有を均一化する事を目的とした農地改草が実施された。この事を農地解放といったが、これは農地だけであり山林については旧来の形で財産家の物として残った。
この時の改草の状況は次のようになっており、農地の所有に制限がなされている。
1)都会等に住み、その地域に住んでいない不在地主の所有農地の全てを解放する
2)在村地主の保有限度、小作貸し付地として1ヘクタール以下とする
3) 自作地と貸付地と合わせて3ヘクタール以下とする この時に政府が、地主から買収した価格は全国平均で、水田10アール当り740円、畑45円で あった。当時は流安10貫(37.5kg)1,240円、大人用ゴム長靴842円であったと言い、現在では想像も出来ないが長靴1足にも満たない安い価格であり、地主達は祖先伝来の土地を手放すのに、大変な苦しい思いをされた事であろう。

昔の稲作りの手順

苗つくり

稲作り最初の作業は、年明けの正月2日の仕事始めに、稲苗を束ねる藁を選り、一握り程のものを30センチ程の長さに切り、それを石の上で手打ちの杵で軽く叩き、苗代の苗を取る時まで保存して置く事から始まる。
妙高山の中腹に跳ね馬の山形が現れる頃が、苗代作りに一番よいとされていた、それを予測して予め種籾を水に浸して発芽の準備をする、通称「たな」と云う、自分の家の池に袋に入れた籾を吊り下げ、発芽を待つのであるから、水の温度が低いこともあり、日数が2週間以上も必要だったのでは無いだろうか。次に「たな」でなく、水温の上がり易い「たらい」や桶などの容器に水を張り、日当たりの良い場所にこれらの容器を出し、この中で籾を浸す様になった。
苗代の作る場所は水が必要な為に、用水の取り入れ易い所とか、水田が使用されたが、用水の水は冷たい為に水田が好まれたようである。田の土を1メイトル間隔位に構を切り、溝の土を盛り上げて平に均し、構は人が通れるように巾を持たせ、盛り上げた土と溝には15センチ程度の段差を付け、この構に溜まる水の高さを加減する事で、苗の生育に合わせて水加減が出来る様にする。
盛り上げた土の上に種を1センチ間隔程度に手作業で均一に撒き、種籾の上には浅く水を張って置くが、太平洋戦争後には油紙を広げて覆い、苗代を保湿するようになり、昭和26年以降にビニールシートが出てからは、苗床とシートの間に空間を持たせるために、竹或いはビニールで出来た弓を張る事が行われるようになったと言うが。この辺りでは昭和30年代でも油紙を使用していた。
手植する苗は15~20センチ程度の長さが必要である為、成長するまでに45日程度かかっていたのではないだろうか。
苗が大きくなるのに手間取る為と、梅雨時の雨が無いと田植えの田作りが出来ない為、田植は6月の初め頃から始まり、澤田の水のない所では梅雨時の雨水を待って田作りを行い、その後に田植えをする為に、遅い所では7月近くになって田植えをする所も有った。
田植えの為の苗取りは、稲苗の根の泥を良く洗い落とすために、苗代に多めに水を張り、苗の根を揃えるように素手で掻き取り、根の土を水の中で洗い落としてから束ねるが、取った苗を弱らせない為に、田植え直前の早朝に行う事もあり、冷たい水の中での仕事であり大変な作業であった。
昭和四十年代の前半からであろうかと思われるが。田植機か一般に普及するようになって、苗代作りも大きく変化するようになる。即ち現在の苗作りと大差ないが、まだ電気で加湿する育苗器が無い為に、苗稲に播種した籾の発芽が充分でないままの稲を、苗床に並べて散水し、ビニールのトンネルを掛け発芽生育した。

畦切

用水路が整備されていなく、少ない水を利用して稲作りをする為に、田からの水の漏れを防ぐ為に各田の畦には壁塗りと言う作業が有った。壁塗り前の作業として、これは壁の上部と、畦の田に間いた面を2~3センチ平鍬で刺り落し、鼠の穴や土の割れ目が良く判るようにして、その後の畦塗りを容易にする為の準備で、その後に田起しと言って田の土を耕した。

田起

一般に田圃を耕す最初の事を田起しと言っていた。前年に稲を刈った田の土は、冬の間に雪に 押されて固く締まっている為、一般には三本針を使用して稲の株を1ツづつ掘り起す。
乾田の場合には、家庭に馬や牛が居る場合は、「からすき」と言う農器具を引かせて田起しをした。 この作業は1人が牛馬の手綱を引き、もう1人が「からすき一鋤」を操作して耕すのであるが、この場合は夕方になり作業が終ると、木で出来た大無い浅い桶にお陽を張り、馬の体をタワシ等で洗って泥や、汗を流したものであるが、何故か牛の場合には見た事が無かった。
3世紀頃の中国の歴史書「魏志倭人伝」には倭国に牛馬なしと有り、古墳時代の頃に牛馬が渡来したものと考えられており、馬は足が速いことも有り戦闘用に使用され、かつ馬に乗ることは権威の象徴とされ、貢物にもなるなど貴重品であったが、牛は農耕用として飼育された為に、このような差別が付けられたのであろうか。
なお、畜力による田起しや代掻きは平安時代末期の、11~12世紀には行われていたと言い。古くから農耕に牛馬が使用されていた事が知られるが。
昭和30年の前半にはこの瑞穂地域にも耕運機が入り、東京オリンピックの頃には各家庭に行き渡った事もあり、各家庭から牛や馬が次第に姿を消した。そして昭和40年代後半にはトラクターが入り初め、昭和50年代には各家庭にも番及した。

コロつぶし

田起した土の塊は鉄の中程あり、20センチ程もあって、大き過ぎて水に浸しても壊れ難いので、コロつぶしと云って、土のコロを5センチ程度に細かく砕く作業があった。
これは1メートル程の柄の先に、人の拳程の金槌を取り付けた槌で、土の塊を一つづつ叩いて細かくするもので、この時に何人かで歌を謡ながら調子を合わせて作業した事もあったから、芸能祭等でコロつぶし歌として謡われる事もあったが、現在ではこの歌を知る人もいなくなった。

畦草刈

田の土手等に生え繁っている草を鎌で刈り取り、この草を5センチ前後の長さに「押し鎌」で切って 田圃に撒き散らし肥料とした。
家庭で馬や牛を飼っている家では、土手の草は飼料として使用して、これら家畜の食べ残した草や糞尿が堆肥として使用された。田圃に使用する肥料はこれらの草が主体であり、化学肥料は全く無かった。かつ畑には糞尿が鎌倉時代から使用されたが、田圃の肥料としてはこれらの畦草しか無かったのである。
化学肥料を使用する様になったのは、太平洋戦争後、昭和20年代中頃から安価なアンモニヤが出て一般に使用されるようになった。なぜならば、肥料の3要素とされる、窒素については空気からアンモニヤが作れるが。塩化カリや燐酸はほぼ全量が海外からの輸入品である事から、国内には無く、更にこれらの原料を輸入する外貨が国に無かったのである。
このために米の収穫は10ァール当り4俵程度であったとされ、現在の半分しか無かった事になる。
田植え後、夏に今一度畦草刈が行われ、家畜の居る家庭では乾燥して干草を作り家畜の飼料として蓄え、冬に切り刻んで藁と共に家畜に与えた。

畦かち

田の土手が高い場合には、水を張ってから水が漏れたり、土手が流れたりしない様に、土が乾いて出来た田の畦の割れ目や、畦の近くの床土(耕作用の土の下)の亀裂を無くする為に、壁かちと云う作業が有った。床土を固める場合は耕起した土を一度取り除いて地盤を出してから、直径20センチ前後の木の槌で、雨が降った後の土が湿っている時に、餅つきの要領で、土の表面を全般に叩いて、土を打ち固めて、田圃からの水の漏れる恐れが無いようにする。
また、槌でなく盤持ち石と言って、平な石を4本の紐で吊るし、2人で吊り上げては落として地盤を固める事も行われていた。

水入れ

田の土が全般に濡れるように水を満たす。

荒くれ

田圃に水が全般に行き渡り、耕した土が柔らかくなったと思われる頃、三本鍬で土を砕き水と良く混ぜ合わせドロドロの状態にする。牛馬の居る家では1人が手綱を取り、1人が「まご」と言う農具を家畜に引かせて、田圃の中を縦、横に回り土を柔らかくした。
この時に手網をとる者は、家畜の足の水しぶきで体が汚れないようにする事と、安全の為に、1メートル位の竹の棒を手綱と共に持ち、家畜との間隔をある程度保ちながら誘導した。この家畜の誘導する者を「鼻取り」と言い、主に子供の仕事であった。
これらの家畜の居る家庭では、囲炉裏の側に土間があり、土間を隔てて家畜用の6~8畳の部屋が有り、家畜が例えば牛であっても馬屋(まや)と云っていた。1軒の家の中に人間と家言が一端に住んでいて、ハエの発生など衛生上間題もあった。

畦塗り

畦切りや畦かちの終わった田圃に水を入れ、足で踏み込んでとか、荒くれでドロドロになった土を、 田の畦に三本鍬で3~5センチの厚さに盛り上げ、平鍬で畦の上部を平に均すと共に、側面も平にして、畦の亀裂や鼠孔からの水が漏れないようにする。

植え代かき

田植え前になると、荒くれと略同じ作業をして、更に土をドロドロにして土の塊が残って居ないようにし て、田植えの作業を容易にする。

えぶり突き

植え代かきを行っただけでは、田圃の表面が平になっていない為に、全面的に「えぶり」と言う均し板を押しながら、表土が均一な水の深さとなる様にする。
トラクターで作業する場合は、荒くれ、代かき、えぶり突きの作業を同時に行うことになるが。丁寧な家庭では荒くれを掻いてから代掻きを行っているが、トラクターの車輪の跡などは「えぶり突き」を行って手直しをする事になる。これで田植えの準備が出来た事になる。

苗取り

田植えする稲苗を弱らせることのない様に、苗取りは田植えの直前に行う事が多い。一般には田植えの前日に行うか、当日の朝と言うことになる。苗の丈の半分くらいまでも苗代に多く水を張り、苗を1本1本掻き取る様に引き抜き、一握り程になると、水の中で揺り、根の土を落とし、1月2日に用意しておいた藁で1束毎にまとめる。

田植え

田植えは1株1株と手で植付けするので、大変な労力を必要とする仕事である。広い面積の場所で は1日でその場所を終らせたい為に、「え、若しくは結え」と云って近所同士が助け合って共同で仕事をした。近年、この様に近所同士が助け合って作業する事が無くなり、人間関係が希薄になった様な気がする。
稲株の間隔は現在の30センチよりも狭くて、21センチ~24センチ程度であり、約1メートル毎に糸を張り基準となる列(条)を作り、この間に3~4株の苗を植える。この稲株の間隔は各家庭やその時代で異なっていた。
この糸張りの作業は一般には子供や未熟者の仕事で、成年の女性は糸張りをした後の列の間を植えていた。
昭和40年代には2条植の田植機がこの瑞穂地区にも入り、その後に4条植えの田植機になり、更に乗用田植機と変わった。

田の草取り

除草剤の無い時代であったから、田の中に生える草は手作業で抜き取ることになる。先ず苗が定着して草が見え始めると1番の草取りが始まり、稲の生育に合わせて2番草、3番草取りとなるが、3番草の頃になると7月末から8月初めの稲が生長した時期であり、葉先が眼に入るのを防ぐ為に、細かい金網の面を着けて作業した。
作業の方法は田の中に、這うようにして、田の表面を手で掻き均し、手に当たった大きな草は抜き取ると同時に、小さい草は泥と一端に田の表面に塗りこめる様にする。
田植も中腰での作業で大変であったが、田の草取りは暑い時期での仕事であったために、更に大変な作業であった。
昭和20年後半の頃だったであろうか、羽根車のような手押し式の除草機が出来て、昭和40年代頃かと思うが動力エンジンの付いた除草機が出て、田の表面を爪の様な歯車で掻きまわし除草するようになった。その後に除草剤が出来て、人力により田を全面的に除草するのを見ることが稀になった。

稗ぬき

田の草取りをしても完全には除草が出来ない為に、稲の生育が進むと稲穂は重くて傾き、稗が目立つようになるので、種の落ちない前に全部抜き取った。

ハサ作り

稲が色付いてくると、乾燥する為のハサ作りが始まる。中栗に上郷中学校があり、ここで長沢と今同で運動会が有った頃、9月のお彼岸にはまだハサが出来ていなかったように思う。従ってこの頃の稲刈は田植えが遅かった事もあり、10月頃から行われていたのであろう、そして11月の報恩講の時にも稲がハサに架かっていた記憶がある。
現在でも米の食味が良いとの事から、一部でハサ作りが行われているが、昭和40年代になると籾の乾燥機が出始めて、次第にハサ作りが少なくなった。

稲刈

梅雨期の雨を頼りにして、田圃を耕作していた頃は、田植えが遅い事もあり、稲の刈り始める時期も遅かった。稲刈も1株1株づつ稲刈鎌で刈っていた。刈った稲はどれ位の量が有るか判るように、1束単位(稲把8把)で纏めて田の中や土手に立てて置き、家へ運ぶまでの間に、少しでも乾燥して軽くなる様にするという配慮があった。牛馬の有る家庭では家畜を利用して稲を運んだが、家畜の居ない家庭では、人間が背負って運んだのである。
家畜のいる家庭でも夕荷と云って、夕方家に帰る時には、各人がそれぞれの体力に合わせて背負って運んだが、男子の大人で40~60kgを背負っていたと思う。
楡島や東関の場合は、場所的に家の近くに田圃があり良かったが、長沢原の場合は間戸の奧から、様橋の場合は飯喰沢の奥からというふうに、3~4キロの道程を重い荷物を運んだものであるから、途中の所々に、荷物を背負ったまま休む場所があった。
太平洋戦争の終わり頃、荷物を運ぶ「だいはち車」と言い、木製の車体で車輪の土と接触する 部分だけ鉄の輪が嵌った車が、この地区で1台だけ有ったのを覚えている、しかし、急な坂道が多い事と道路が砂利道で有った事もあり、扱い難かったのであろう、使用しているのをあまり見掛けなかった。
太平洋戦争の後戦後、昭和20年代の中頃から後半に掛けての頃からと思われるが、1輪車やリヤカーが各家庭に入り、これに伴い農道が整備されて急な坂道が無くなり、道の中も1m程度か2m位に広くなり随分と便利になった。その後、昭和も終わりに近くなって、農道の舗装が進みみ利道が少なくなると共に、運搬も機械化されて、運搬作業が楽になった。
これら農道が整備されるまでは、道幅が狭く荷物を背負った人が、漸くすれ違うのに精一杯という位で、かつ、成るべく近い距離を通る様にとの思いから、直線的な道程で急な坂道が多く大変であった。
一輪車が出始めた頃には非常に高価であり、一台の価格が職人日当の10日分ほどであり、 各家庭では購入するには大変であった、この為に地区によっては頼母子講をつくり、順番に購入したと言う話も有る。
この一輪車が出るまでは土木工事で土や砂利を運ぶのに、「もっこ」と云って藁の縄を網状に偏んだ物に、土等を入れて二人で担いで運搬したが、一輪車が利用されるようになってから、土木作業も随分と楽になった。その後にパーワシャベル等の重機が出て土木工事の方法も大きく変化し た。
昭和30年代には耕運機が牽引するトレラーが出現して、人力で稲を運ぶような事は略無くなり運搬作業が随分と楽になった。その後、昭和50年の冬わり頃からと思われるが、各家庭に軽トラッ クが入り始め、荷物を背負う事が稀になった。
稲刈の時期については、電気保湿による発芽が行われ、ビニールによる折表苗代ができ、昭和40年代に田植機が利用されるようになり、田植えの時期が早まるとともに、稲刈も早くなると共に稲刈機が出現して、籾の乾燥についても乾燥機が普及するなどあり、ハサ掛け稲の乾燥具合を気にする事も無くなった。
昭和40年頃を境として、足踏式の稲こき機から、次第に動力式の脱穀機に変わり、耕地整理が進んだ所では昭和45年頃にコンバインが出来て、田圃で稲刈と脱穀を同時に行うようになったと言うが、この瑞穂地区では昭和50年代にコンバインの利用が始まり、全般に広まったのは昭和60年代になったのではないだろうか。
これら農業の機械化が進み作業も随分と楽になると共に、9 月中頃には稲刈が始まるようになり、 略現状に近い農作業になった。

籾摺り

籾から米にする作業は、大昔瓷に根を入れてこれを棒で突いて初殻を取ったと言う、その後、石臼の中に籾を入れて杵で搗いたりしていた。この為に、石臼の杵を搗く方法として、水車が利用された、また、バッタリと言う弥次郎兵衛に似た仕掛もあった。
その後に、土臼と云い現在の石臼に似たもので、土で出来た大きな臼があり、これで籾摺りを行っており、昭和の初め頃まで使用されて、子供の頃に実際に作業しているのを見た覚えがある。
籾摺り後、米と籾殻との選別には唐箕を使用していたが、江戸時代中頃以前は箕で煽るとか、 風の力を利用していたとの事である。
大正10(1921)に、ヤンマ発動機が日本でも製作されるようになり、昭和の初期にはゴムロール 式の籾摺機が普及し始めたとの事である。この土地でも実際に使用されており、水冷式のエンジンを動力として、ベルト伝導で籾摺機を稼働させるもので、エンジンは随分と大型で、金属のアルミがまだ珍しい時代であったから、鋳物製であり、男性2人がやっと運べる程の重さであった。この頃の籾摺機についても随分と大型で大人の背の丈程も有ったように思う。
各家庭にこの籾摺り機が有った訳でなく、この作業する人達は近藤の部落毎に、各家庭を順序よく1軒1軒回って、通称、臼式をしたものである。稲刈自体が遅かった事もあり、雪の降る近くまで作業が続いた。
昔は全部がハサ掛けで乾燥した稲であったから、乾燥が悪く、籾摺りもなかなか大変であった。 昭和40年頃から次第に各家庭動力用の電源が入り、動力としてのエンジンが必要でなくなり、乾燥機や叔摺機が入るようになり、各家庭が自分で籾摺りを行うようになった。

とうどう呼び

各家庭の農作業が終わると「とうどうよび」と言って、各農家がお互いに、農作業を手伝い合った 者同士が、かわるがわる順番でご馳走をして、相手を夕食に招待して、お互いが助け合って、今年1年の農作業が無事に後った事を喜びあった、
ご馳走と言っても、家庭で取れた大根や人参等自分の家で取れた、野菜の煮付けた物が主たるもので、それに油揚げとか、竹輪とかが有ったが、魚とか肉とかは無かったように思う。
食事後、帰る時にはこれらの煮物を藁で出来た「っとっこ」と言うものに包み、頂いて帰るのが楽しみの1つでもあった。や近所同志が、困った時にはお互いに助け合うと言う精神から、今よりは、お互い近所同士で近親感が有った様に思う。
各地の耕地整備が進み、各種の農薬や肥料も充分に使用でき、農業の機械化が進んだ結果、米が余るようになり、昭和45年から米の生産調整、いわゆる減反政策が実施されるようになった。米が余るようになった原因はパン食やラーメンを食べる事が多くなったからで、昭和45年には1人が年間に約120kgの米を食べていたのが、現在では半分程度になったと言う話もある。
そして、農業の就業人口が減少して、農業以外の産業で働く人が増加したと言い、即ち、昭和45年の農業の就業人口1,035万人であったが、平成12年には389万人になったと言う。
なお、米価については次のデータがある。(60kg当り 円)
- 明治元年 1.69 大正元年 8.32 昭和元年 12.7 昭和20年 60.0 昭和21年 220, 昭和22年 700, 昭和23年 1,487 昭和39年 5,775 昭和45年 8,216 昭和48年 10,390 昭和62年 19,390 平成10年 18,000

 

稲作以外の作物

昭和の初め頃、稲作のほかに次の作物が主たるものであった。

陸稲(おかぼ)

他所の地域に比較して水田が少ないためと、傾斜地の畑が比較的に多い事ことから、明治33年頃から自家用の主食として陸稲を耕作した。この場合は水田の場合と違って畑に畝を立てて溝を作り、この溝に、予め水に浸しておいた種籾を直接畑に撒いて、耕作する事が行われた。一反当たり7斗の収穫であった。
この米は水田の米に比較して粘り気が少なく、味が良くない事もあってあまり歓迎されなかったが。しかし、水稲が不足していた為に、貴重な主食であった。

主食としての米が不足していた事から、米の代用食として麦が作られていた。秋になると、夏の作物を収穫した跡の畑に、畝立てして直接種を撒き、雪が降る頃までに10cm程に成長して冬を越し、6月の下旬頃から7月の初め頃に刈り取っていたように思う。
乾燥した茎から種を取るのには、足踏み式の稲こき機も使用されたが、筵の上に倒して置き、丸太か何かで穂を叩き、種を落とした、種は臼などで搗いて実と殻とを選別した。
この麦の刈り取り前に、既に煙草などの夏用の作物を畝の間に植付けして置き、麦の刈り取り後に中耕や土寄せを行った。
大麦は米に1割~2割程度を混ぜて焚き主食とした、このご飯のことをバクメンと言った。この地方では、太平洋戦争後にこの様な混ぜご飯は姿を消したが、韓国では米が不足であったのであろう、 昭和56年頃でも、まだ麦飯が一般的であった。
小麦については粉砕して小麦粉として食べたが、粉砕するのには水車などの動力のある所に持ち込み、石臼で挽いて粉にしてもらった。
また素麺としても食べた、昭和20年代の前半の頃にも、素麺は市販されていたが、高価な物であったのであろうし、農家そのものには現金が無かった事もあり。この辺の農家は素麺の製造している所に麦を持込んで、素麺に交換してもらったのである。
この交換場所は飯山地区の瑞穂というから、野沢温泉へ行く途中の、大関橋近くの瑞穂地区であったのではないだろうか。ここまで麦を背負って往き、素麺と交換する為に、歩いて往復したのであるから、大変な労働であったし、また素麺を食べると言うことは大変なご馳走でもあった。しかし、これらの小麦も昭和25年頃からは、次第に耕作が少なくなった様に思う。

穂黍

掃除機が一般化した現在では使用されなくなったが、座敷用のお座敷箒がある。これは黍の穂の部分から出来ている。
是と全く同じかどうか判らないが、穂黍という物が栽培されており、この穂に実った種を乾燥後に 精白して、餅として搗いて食べ、またご飯に混ぜて代用食として食べた。

糖黍とはぼ同じ様にして食用とした。

大豆

味噌は奈良時代から作られていたとの事で、この原料して大豆が栽培されていた。この瑞穂地域では、自分で食べる味噌は自分で作るという事が一般的であって、春に雪消えの頃になると、各家庭が大きな釜で豆を柔らかくなるまで煮て、この豆を味噌摺り機で潰して豆の団子を作った。団子の大きさは各家庭で違っていたが、直径が15〜20cmで高さが30cm程であった。
この豆の団子を綺麗な筵や藁の上に延べておき、醗酵させカビが生えてくると、細かく刺り刻み、 麹や塩と共に樽に仕込んだ。
近年になって、醗酵させること無く、擂り落とした豆を直接得に仕込むようになった。しかし、現在では、自分の家庭で味噌を着る事が無くなった。
陸稲を初めとして、麦や粟は水田の不足からくる、米不足を解消する為のためであるが。一方米の販売以外に、現金収入の少ない農家にとって、現金を得る為の作物として次のものがあった。

葉煙草

日本に煙草が渡来したのは西暦1543年だったというが、その後、江戸時代初期の万治5年(16 59)、大鹿村の五郎左衛門と言う者が、長崎から種を持ち帰り、この地方の葉煙草耕作が始まったと言われる。そして、長沢部落では元禄16年(1703)の耕作に関する文章が有ると言う。
したがって、大鹿に近いこの瑞穂地区でも、江戸時代から葉煙草の耕作が始まっていたと考えられる。そして昭和20年代には有力な換金作物であった事から、多くの農家で耕作され、部落の戸数の、3分の1位が葉煙草耕作を行っていたのではないだろうか。
昭和20年後半にビールシートが普及するまでは、葉煙草耕作も大変で、乾燥するのに非常に困った。葉を1枚1枚縄に編みっけ、乾燥枠に吊るしても、雨除けとしてはゴザか筵しかない為に、雨で濡れるのは避け様が無かった。
そして乾燥に時間が長くかかる事も有って、納屋の中や家の中に吊るすという事もあり、さらに、当時は良い殺虫剤が無い事もあり、葉に付いていた虫が家の中に落ちると言う事が発生した。
また、軒下に丸太を2本適当な同隔で立てて、是に葉煙草を編んだ蔓の両端を括り付け、地面 から軒下いっぱいまで段段に吊り下げて乾燥させた。
この様な乾燥の仕方では充分でない為に、ほぼ乾燥が出来た時分には「地乾し」と言う仕事もあった。これは天気の良い時、乾いた地面に葉煙草の蔓を1本1本延ばして最べて、乾燥させるもので、夕方には家の中に取り入れ、翌日、再び乾燥させると言う事を繰り返して、仕上げ作業とした。
次に、乾燥した葉を延ばす「葉のし」と言う仕事もあった。この仕事は一般に稲の取り入れが後った、秋遅くなってからの、夜なべ仕事である事が多かった。乾燥して皺くちゃになった葉を1枚づつ台の上で皺を伸ばし広げて、重ねておく作業であり1人でやる場合もあったが、大きな葉の場合は2人で向き合って行った。
最後の仕事として、「葉分け」が有った。葉が茎についた位置や、乾燥した葉の色の具合や柔らかさ、葉の大きさ等によって選別を行うもので、この作業の良し悪しで、売り渡し単価が違ってくる事から、真剣にならざるを得なかった。
明治の中頃まで、これらの選別された葉を自分の家で切り刻み、たばこの製造業者に販売してい たとの事で、この葉煙草を切り刻む包丁は昭和20年代にも有った。
明治31年(1898)に国の税収の関係からか、たばこの販売は固の管理下に入り、自由に販売が出来なくなった。
明治34 年、現在のけいなん病院の北側に専売所が出来て、ここに葉煙草を納める事になった。是を「納付」と言って、葉煙草耕作者に取っては一大行事であった。
何故ならば、当時は貨物自動車もなく、かつ冬期の仕事であり、運搬するには背負うか、或いは●で運ぶしか方法が重かったのである。
この頃の冬道は、人が 1 人やっと通ることが出来るだけの、一本道であったが、橋を通す為に雪を踏み固めて道幅を確保する必要があった。従って、納付の時期になると道が良くなり、歩き易くて、町まで行くのに便利が良かった。
貨物自動車で納付するようになったのは、昭和30年代の後半の事ではないだろうか。

草箒

葉煙草は換金作物の最たるもので有ったが、草箒も大切な換金作物であった。現在でも自家用として、若干は作られているけれども、電気掃除機が出るまでは都会でも一般に使用され。また紡績工場では綿ほこりを集めるのに、棕櫚箒よりも草箒の方が作業し易いとの事で、多く利用され たとの事である。
畑に植えられた草箒が成長して、刈り取られたものは家の庭や屋根等に最べて干し、夕方には 露に濡れないように取りいれ、翌日また乾燥するという事を繰り返して、乾燥が終わったら「箒はたき」と言って、台の上で叩き、或いは、揉んで葉や種を落とした。
仕上ったものは握りやすい様に、3本程度を1組として束ね、手で握る部分は藤蔓を書いて一本の箒が出来た。是を何本かを纏めて荷物を作って置くと、仲買人が来て買っていった。

油菜

食用の油については店で販売もされてもいたが、現在の様に色々の種類の油が店頭に有ったのではなく、菜種油1種類で、そして油そのものは高価であり、また貴重品でもあった。このために農家では自分で食べる油は、自分で生産するという方式をとった。
昔、この油は食用としてばかりでなく、夜に明かりを取る照明用としても貴重品であった。現在では一般に使用されなくなったが、油を貯めた器の中に灯心を侵し、是に火を灯し明かりとした。この為に江戸時代の中頃には、幕府が菜種を取る事を奨励した時もあったという。
従って、各農家では油菜を自分の家で越冬作物として作り、翌年の6月から7月にかけて収穫し、 乾燥後に菜種を取り、自家用の油を取る分を家に残し、余ったものは販売した。
菜種から油を絞り取るにはこの地域に業者が居なくて、採油業者のいる姫川原とか関山へ、菜種を持って行き油と交換した。
現代では飯山の千曲川の辺で、菜の花祭りとして盛大な行事があり、1つの丘が真黄色になる様に油菜が特別に栽培されているけれど、昔は近くの原通地区では多く栽培されていて、5月8日に寺尾の薬師さんで祭があり、屋台も数軒出て賑やかで、子供達が大勢で遊びに行ったが、この頃は菜の花の咲く最盛期で、大沢から坂下までの畑が一面に黄色だった。

養蚕

昭和の初め頃まで絹糸を取る為の蚕が飼われおり、蚕の繭玉は貴重な現金収入であった。蚕棚といい畳1枚程の大きさで、竹で出来た、平な網みたいな物を並べて、この上に桑の葉を敷き詰め、この上で蚕を飼った。
一般に家の中や納屋に枠を作り、この枠に30cm位毎に段を作り、この 1 段1段に蚕棚を置いて天井の高さまで、蚕を飼った。蚕を飼う事から桑畑も多くあった。
蚕の繭玉は仲買人が買い集めて、製糸工場に送り絹糸が生産された。長野県の諏訪湖近くの同谷にこの製糸工場が多く有り この辺からも最い女性が出稼ぎに行った。この頃の労働は12時間勤務であり大変に過酷であったと云いう。
外国で化学繊維が生産される以前、絹織りものは貴重な高級繊維として重用されていた。又、日本が工業国になる前には、日本から輸出する物が少ない中で、絹系は貴重な輸出産業でもあった。
この瑞穂地域では、太平洋戦争の頃に、もう養蚕が行われなかったが。然し、妙高村辺りでは生産されており、昭和30年代まで、小出雲の交差点近くに製糸工場があり、見学に行った事がある。この養蚕については古くからの歴史があり、奈良時代に既に行われていたと言われ、上杉謙信時代には、西頸城辺りでも養蚕が行われていたという。


(「瑞穂の昔」飯吉 達雄 著 より「農作業」の項 参考文献