明治以来、七曜表が採用されるようになり、月曜日から日曜日が定められて、土曜には学校や官庁では半日勤務が一般的になった。そして日曜日は休日であった。
然しながら、我々の住むこの瑞穂地域では、殆どの家庭が農業で生活していた事から、土曜や日曜にも間係なく、ただひたすらに農作業をするのが日常の生活であった。
このために、地域全体が農作業を休む日を決めてあり、この日を野休み、或いは「あすびし」と言って、家庭では休養し、近所とお茶のみを行って交友の機会を持ち、また、農作業が忙しくて、日常には出来なかった家や納屋の整理等を行った。
この「あすびし」としてはどのような事が有ったか、記憶を辿り、間違いがあるかも知れぬが、記述したい。
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太平洋戦争が終るまで、1カ月遅れの旧正月であり、1月31日が年の暮れで、この日が年取りであった。この頃になると既に日脚が延びていて、子供達は夕食後
に橇乗りをして遊んだ記憶がある。
なぜ1カ月遅れの年取りであったのか、その理由は判らないが、秋の乗り入れが現在よりも遅かった為に、農作業が長らなかったのか、太陽暦と太陰暦では現在も四十日位も違っている事もあるから、昔からの太陰暦の習慣が残っていて、これらに原因が有るのではないだろうか。
太平洋戦争が終わってから、12月31日の年取りとなった。そして1月2日にはこの年の仕事始めとして藁仕事を始める慣わしがあった。最初の仕事は苗代の稲苗を取った時に、この稲苗を束ねる苗手藁を作る事から始まる。
先ず藁を選り、不要な屑を取り除き、稲の茎のみとして一握りの杞を作り、これを50センチ位に短く切り、この杞を石の上に置いて木槌で叩いて、稲苗を束ねるのに良い様に柔らかくして、苗取りに利用した。
正月三賀日が終ると、本格的な藁仕事が始まり、荷物を背負って運ぶ時に使用する荷縄をない、背中に当てる蓑を作った。また、この年に農作業に使用する草鞋や藁草履をつくり、米を入れる俵や㕥を編み、稲を乾燥するハサを作る時に使用する縄をなった。また米や大豆を干す時に庭に広げる筵も編んだ。
これらの藁仕事は春の雪消えまで続いた。
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1月7日には七草粥と言って、雑煮を食べる習慣があった。
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1月14日には若木取りといって、山から生木を切って来て、1月15日の朝にはこの木を燃やして餅を焼き、小豆粥をして食べた。この時の若木は生木でもよく燃える事からケンポの木が好まれた。
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1月15日には小豆粥を食べたが、この残りを柿木にやると小豆の粒が多いほど、秋には梅の実が多くつくと言う謂れが有り、小豆粥を柿の木の根元に撒いて、秋には柿の実が多く取れるようにと祈った。
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1月15日の夜には賽の神の祭りがあり、中心に大竹を立てて、これに藁や畳を括り直径2〜3メートルのものを積み上げて、塔の高さを5メートル程のものを日中に造っておき、夕暮れに点火して燃やした。点火後はその年の十二支の、当り年の人達が行うのが慣わしとなっていた。
猿橋の賽の神は近隣のものと異なり、この頸南地域でも例がないかと思われるが、山から切り出したばかりの若い木で櫓を組み、地表から1.5メイトル程の高さの上に格子状の段を組み、この段の上から藁を積み上げるのであり、大きくて、高さも10メイトル程にもなる。大型のものである。
この時に前年の神棚の御礼や達磨を一端に燃やすと同時に、書初めの習字の「のぼり」も焼くが、これには習字の上達を祈願するという意味合いが含まれている。
そして、賽の神そのものの意味合いとしては、疫病や悪魔、その他の災難を自分たちの地域境で防ぎ、今年も1年間、地区民全員が安穏に暮らせるようにと言う、願いが篭められていると云われている。
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3月9日、冬の間、里に降りてていた山の神様が、春になって山に帰ると言う意味があり、この頃になると雪の降るのも落着き、何かしら春らしくなって来る。この日を境にして山仕事をしても良いと云われ、牡丹餅をして食べた。
そして、前年の秋に萱を刈り、山に纏めて積み上げて置いたものを、橇で部落まで運ぶ事や、山に積み上げてあった燃料用の「ぼよ」や薪等をも、雪の有るうちに橇で各家庭まで運ぶ事が始まる。
昔は、物を運ぶのには人間が背負ってするのが一般的で、ましてや遠くの山から、道も無いような場所から物を運ぶのに、雪を利用して一回に大量の荷物を運ぶ事が出来ると言う意味で、橇は貴重な運搬手段で有った。
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3月20日若しくは21日、(その年に拠って変わる事がある)この頃になると、雪も降ることが少なくなり、春雨に変わり、陽気も暖かくなり始め、重苦しい冬の気分から抜け出して、何かしら安心感が出て来て、各家庭では牡丹餅をするのが一般的であった。
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4月3〜4日、都会での雛祭りに相当するものであるが、この頃になると、雪も消えて農家にとっては、農作業が間もきく始まると言う、何かしら緊張感のある時期である。
この時、各家庭では餅つきを行い、子供達は何人かでグループを作り、各家の餅を持ちより、野原に竃を作り、ここで、もちを焼き雑煮を造って食べ、友達と夕方まで遊んだ。
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4月18日、慶長10年(1611)に平丸に石田大炊之助と言う者が居り、この者の祖先が平丸峠の長野県側、長野県水内郡太田村五荷(飯山市柏尾橋の近く)の寺に預けておいた、観世音菩薩を平丸に移し、お堂を建てて祭り安置した。
そして翌年に4月18日に盛大なご開帳を行った。
それ以後、平丸ばかりでなく、近藤の村からも参詣者が多く、大変に賑わったと言う、この瑞穂からも参拝者が多く平丸へ行った事であろう、従ってこの地域でも農休みであり、各家庭では柔らかい芽が出たばかりのもぐさを取り、もぐさ入りの草餅を掲いて食べた。ただし太平洋戦争後戦後はこの行事は次第に衰退した。
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4月24日、絵島部落の祭りであったが、各部落でも農休みであった。
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4月29日、この頃になると農作業も始まり、陽気も暖かくなって過ごしやすく、この年の豊作を祈願して春祭りが行はれる。各部落共通の祭日であるが、長沢原神社では神宮の舞が有り、天の岩戸や鯛釣りの舞があった。この舞を見るために各部落から子供達が多く集まったのを覚えている。しかしこの年も何時しか見られなくなった。何時から4月29日が春祭りに決ったか明確でないが、昭和天皇の誕生日が天長節として祭日に決ってからかもしれない。
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5月3日、太平洋戦争後、暫くしてから清掃日というのが設けられた。これは家の中を清潔にして、病気に罹らなくしましょうという趣旨で始められたものと考えられるが、この日を境として、各家では畳の変わりに敷いてあった筵を外して乾し、板の間に替えるような事が行われ、冬の生活から夏の生活に変わった。
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5月8日、薬師さんの祭りとしては、今でも板倉の山寺薬師が有名であるが、皆は原通地区、高床山の麓の部落にある寺尾薬師が、山寺よりも近い事もありこの地方では崇められていた。
従って、この日も農休日であり、子供達は学校が終わってから。親からいくかのお金を貰い、友達同士で連れ立って寺尾薬師まで遊びに行ったものである。
この瑞穂地区では菜種油を取る為の油菜は多く栽培されていなかったが、大沢部落を登り坂下部落までの同、各所の畑には黄色い菜の花が一面に咲いており、瑞穂地区に比較して土地が平坦であることから、遠くまで見渡せる事や、空が広く広がっている事等から、うきうきした気持ちで薬師を目指して急ぎ足で行ったのを覚えている。
薬師の石段は百段ほど有り、登り切ると、お堂の前の広場には屋台が何軒かあり、それぞれの店には子供の玩具等が売られていたが、茹でた大きなカニも売っており、珍しくもあり又美味しかった。
そして、薬師が終ると、本格的に田起し等の本格的な田仕事が始まった。
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その年の農作業の進み具合によって、特に日時が決っていなかったと思われるが、田植えの仕事が終ると各部落揃っての節句があった。
この節句は一の大きな仕事が炎ったと言う、大きなこ切りの意味もあり、何かしら精神的に安堵感があった。
この頃になると、新しい笹の葉も伸びており、各家では餅を搗き、団子状に千切った餅を笹の葉にのせ、笹の葉を折り曲げて、一枚の笹の葉で一個を包むと言う方法で、笹餅を作った。この餅は青い笹の色と白い餅の色が映えて美しく、また笹の匂いがして美味しかった。
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7月1日、この日から、夏が来たと言う意味か、子供達は川で泳いでも良いと言うことになっていて、この日から子供達は男も女もパンツを履くことも無く、裸のままで川に入って泳いだ。
ブールが無い時代であったから、泳ぐ場所は関川と長沢川の合流点のデンシンドブとか、砂原橋の上流のネンボ淵であった。今のようにタオル等も無かった時代であり、身体の水滴を拭くことも重く、日が当たって温かくなっている石に抱きついて、体を温めたり乾したりした。
また各家庭では赤飯を作るのが慣わしとなっていた。
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7月17日、関山神社の火祭りに合わせての農休みであった。昔、妙高山の信仰は現在よりも盛んで、遠くの清里村辺りからも幟を立てて集団で参拝したものだと言う。
従って、この瑞穂地区からの参拝も大変に賑やかであり、大正時代の頃まで、大きな幟を担いで、関山神社に参詣したという話しを聞いた事があり。太平洋戦争後も猿橋の某家に、この時の幟が有ったと聞いている。
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8月7日、七日盆といって、気候も一年で最も暖かい時期であり、間も無くお墓参りになると言う実感が有り、墓の掃除などを行った。
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8月13日、御墓参りの日であり、各家々ではお墓に蝋燭を灯すだけでなく、家から出る時から盆提灯に蝋燭を灯してお墓まで行き、先祖を忍という、落着いた雰囲気の中にも華やいだ所があった。
しかし、子供の数が少なくなったりして、また、お墓をこの土地に残したまま都会に移った家もあり、また自分の家の近くに有ったお墓が、他所の墓地やお寺に移動した家庭が出たりて、以前よりも物静かになった感じがする。
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8月15日、16日、薮入りと言って、都会へ出稼ぎに行っていた者が帰ってきたり、嫁に行った娘が子供をつれて里帰りしたりいて、家ばかりでなく、部落全体が賑やかな雰囲気になった。
夜になると、小学校の校庭で盆踊りがあり、校庭の真中に櫓が組まれ、この櫓の上の太鼓が叩かれると、遠くまで音が届いて、各部落から浴衣姿に着飾った若者が集まってきて、校庭いっぱいに踊りの輪が出来た。
テレビやカラオケ等の娯楽の無い時代であり、この盆踊りが唯一の娯楽みたいなものであったし、また男女交流の場でもあり、元気な若者は大鹿や長沢までも歩いて踊りに行き、幾つかのロマンスが生れたりいた。
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8月20日、薮入りで実家に来ていた者たちも、それぞれ帰って行き、静かになるが、盆踊りは続いていた。
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8月27日、28日、この頃になると、夜には涼しくなり、夏が過ぎて秋風が吹き始める。気分的にも何かしら、うち寂しい義持ちになりながら、夏の終りを惜しみながらも盆踊りは続いた。
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9月15日、この日は長沢部落の祭り、夜宮と言う事で。これに合わせて、この地区でも農休日で有った。
これは近隣の村の祭りと云う意味もあったろうし、また、長沢の家とこの土地の家とが、血縁に繋がっている者が多かった事が、ある程度影響していたのかも知れない。
この夜の祭りは、長沢での年間行事で最も盛大なものであり、夜店が出たりして賑やかで、この地域からも若者達が遊びにいった。私も小学生であったが、一度だけ夜に友達仲間で長沢まで歩いて行った記憶がある。
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9月20日を過ぎると秋の彼岸があるが、その年がうる年であるかどうかで前後するが、一般的には22〜23日である。この日は「おはぎ」を作って食べるのが慣わしとなっていた。中栗に上郷中学校が有った頃には、この日が運動会の日と決っており。部落対抗があったりして、長沢部落の人達と交流した。
昔は田植えが遅かった事もあり、秋の彼岸にはまだ稲刈の準備の頃で、「はさ」を作って無かったように思う。野休みの日であったが、稲刈り前である事から、何かしら心忙しく落着かない日であった。
催事とは関係が無いが、各家庭では稲刈りが終ると、刈上げといって「おはぎ」を作って食べて、大行事が終った事を祝った。
また、1年中で近所の家から農作業を手伝って貰った家では、「とうどう招(よ)び」と言って、手伝ってくれた人を夕食に招く事も行われていた。
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特別に日が決っていなかったように思うが、稲の始末が略終わった、11月下旬頃だったかと思う。部落の共同作業であった萱刈りが終り、まだ萱場の現地に萱を干してあり、纏めて積み立てないのに雪が降り、祭りの後に萱を集めたと言うような事も有った。
遅い秋の祭りの為、神社の杉の葉が多く落ちていて、集めて始末するのが大変であった。
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太平洋戦争が終るまでは、年取りといっても1カ月遅れの1月31日が年末であり、雪が多く降った年は、既に何回かの雪下ろしをしていて、除雪機が無い時代であったから、家の周りは萱屋根に着くほどの、雪に埋もれている事が多かった。
一月の最も寒い時期であったが、囲炉裏の焚き火が唯一の暖房であり、囲炉裏の部屋は屋根から煙を出すために、天井も無く吹き抜けであり寒かった。
年取りのご馳走と言っても、家庭で採れた野菜を主とした料理で、魚は家の水田で獲れた鯉であり、肉料理は家で飼っていた兎や鶏であった。
今から思えば非常に貧しい食事であったが、家族が揃って無事に年を越せる事を、お互いが喜んだものである。
(「瑞穂の昔」より 参考文献)