食事

我々人類がこの世に出現して、何を食べていたかと言うと、まだ作物を耕作する事も無く、自然にある物を、そのままの形で食べているよりも方法がきかった。
この為に、木の実の多くが食糧となり、主としてクリ、ドングリ、トチ、クルミ、カヤ、市、自然薯やその実などがそうであったろうと言われている。そして今から数千年も前に、自分の住居の近くにクリの木を栽培していた形勢が有ると言われている。
また、動物についても熊や鹿その他の小動物が食べられたのであろうし。海や川の魚や貝についても食用にされた。
近くは、魚沼市の約一万年前の遺跡からは鮭の骨が出たと言うし。九州の七千年前の遺跡からは月の層が見つかっているという、大勢の先住民がその場所に住んでいた為か、或いは長くその場所に位み付いていた故か判らないが、この貝塚の厚さは1メートル幅1.5メートル長さ500メートルと言う程に大きいものが有ると言う。
これらの食糧を蓄えたり、調理したりする時に利用したのであろう、約一万六千年前に既に土器が有ったと言うし、約九千年前の金沢市の遺跡からは木をくりぬいて漆を塗った器が出ていると言う、また約七千年前には木の皮で編んだ籠があり、約三千年前になるとけで籠を作る技符も向上した物になったと言う。
そして、今から三千年前だとも言われているが、この頃に稲を作る技術が渡来して、 我々祖先の食生活が大きく変わる事になる。然しながら急激に米だけの食糧と成ったのでなく、原始時代と同じ狩猟生活をしたり、野生の木の実を食べたりの生活をしながら、米のできる耕地を耕し、水のない高い土地では米の代わりに稗や粟を作り、随分と長い時間をかけて食生活が変わって来たものと考えられる。
この様な原始時代の食生活では有ったが、動物には火を通して食べ、米は玄米であったがお粥のような状態の物を食べたと言う。現在のご飯の様に炊いて食べるようになったのは鎌倉時代の頃からと言われる。
今から二千五百年前頃には既に塩があり、箸も使用していたとの事であるが、この頃の塩の使用量は少なくて、現在の10分の1程の、一日1グラム程度であったので はないかと言われている。
千五百年ほど前になると酒が作られ、高志(越前、越中、越後)で酒が造られていた。 ただこの頃の酒は濁酒であり、室町時代後期には、木の桶が作られるようになり、精米の技術も発達して、白米仕立ての日本酒の原型が出来て、現在の清酒の様になったのは江戸時代の1661年と言われ。そして酒粕を利用した奈良漬が出来たのは765年と言われる。
然しながら酒を飲めるのは公家や貴族のみで、一般には酒を呑む事が禁止されていた。けれども民間でも酒を飲む風習が有ったのであろう、しばしば飲酒の禁止令が出され ている。
奈良時代の貴族の食事は朝10時〜12時、夕4時の2回のみで有ったと言われ、承応5年(1655)には将軍が3食になったと言うが、鎌倉時代に3食になったと言う説もあり、いずれにしても明確でない。
主食は米飯、副食は蔬菜や鳥肉、或いは魚であったとの事である、然しながら佛教の影響で肉食が禁止されていた。
けれども、大昔、佛教は上層階級の出来事であり、一般庶民の生活まで影響を与えてはいず、農民は3〜4食たべ、仏教の信仰もまだ知る事無く、肉食もしていたらし
い。
調味料としては塩、酢、飴などが有り、醤油の実のような物もあり、900年には梅干が出て、938年には味噌が有った。
然しながら、この頃の貴族の食事と言っても、現在の一般人の物に比較して、非常に粗末な物であった。そして味噌汁が一般に暑及したのは1470年の織田信長の頃からとされる。この頃の文安5年(1448)には刺身が有ったが、魚の鮮度の同題もあったのであろう、酢で合えた物であった。
信長の時代になるとポルトガル人が長崎にきて、キリスト教を宣教し、西洋文化が入ると共に、洋食が伝わり肉食も試食されたが、一般には従来のままであり、粗末な食事であった。
砂糖については外人が渡来してから我が国に伝わるようになったが、江戸時代には未だ一般的には暑及せず、塩と酢が調味料として使用されていた、従って江戸時代の 料理の本には砂糖を使用した物がないと言う、明治元年頃になって砂糖の値段は米の数倍であったというから、この時代でも甘味料としては飴が用いられており、この地域の各家庭に砂糖が入って来たのは、明治の終わり頃ではないだろうか。

近代

明治5年(1872)になると今までの伝統を破り、天皇陛下が肉食をするようになった。
然しながら、日本人の食事は基本的に昔から「1汁、三菜」と言われており、お汁の他は「漬物、煮物、和え物、」が有れば好いとされていた事もあり、昭和30年台まで非常に粗末な食事であった。
太平洋戦争中、或いは戦争後も含めて、砂糖がない、油がない、醤油が無い時代で有ったから漬物しか無かったのである。醤油の代わりに、味噌漬を煮出して汁を取ったが、この煮出した後の味噌漬が美味しいかったのを覚えている。
太平洋戦争中は調味料ばかりでなく、主食の米も無く糧飯(かて飯一混ぜご飯)を食 べていた事を前にも記したが、1800年頃の米沢上杉藩では米が不足しており、80種類もの混ぜ物が有ったと言う、また九州の島原の子守唄でも芋飯、粟飯と唄われており、米が不足していた時代に、かて飯は一般的なものであった。
それでも、戦争後は米のご飯を充分に食べられるようになったし、掘の内や新井の町から行商の人達が来るようになったが、砂利道を自転車に荷物を積んで来るのであるから、生鮮食料という訳にはいかずに、塩鯖、塩鱒などの塩蔵品しか無かったのである。

現代

昭和20年後半になって、国民の栄養状態が同題になり、昭和33年には国民4人に1人は栄養に欠陥があるとされ、一日に百グラムの動物性蛋白質を取ろうという運動が始まった。そして卵がご馳走と言う時代であった。
昭和32年NHKで「きょうの料理」、番組が始まり、その番組の一番初めがカレーの作り方であったという、ただし、この頃のカレーはカレーの粉や麦粉量を自分で調合しながら鍋の中で混ぜ合わせる物でから、現在のカレーの様に店で出来ているカレーのルウを、砕いて鍋に入れるだけの物とは違う。
昭和30年代前半の料理番組の風景が近年になって放送されたが、ご飯にお汁、漬物、卵焼き、豆腐であった。電気炊飯器がまだ普及しない頃であったから、ご飯の入れ物は木製の桶「おひつ」であった。
我々日本人の食生活で大きな変化をもたらしたのは、先にも述べたが、第一のものは太平洋戦争後の学校給食であろう、子供達が充分な栄養状態でなく、昭和21年の国連から脱脂粉乳や小麦粉の支給があり、牛乳やパンの給食が始まる。この頃の子供達が大人になってからパン食が一般化して、これに伴い米飯の使用量が減少し、米が余り減反政策が進められた。
第二には、各家庭に冷蔵庫が入った事ではないだろうか、この瑞穂地域では昭和40年前後位から、各家庭に小さいながらも冷蔵庫が入り始め、肉や魚を家庭で貯蔵できるようになった。更にスーパーマケットが出現して、各種の食糧が買い易くなった。この様な事情から行商人が姿を消し、各種の店が廃業した。
第三にはインスタントラーメンの普及が考えられる、うどんについては奈良時代に中国から渡来し、平安時代に広まったと言われるが、うどんや素麺は食べるまでに手間がかかる、ラーメンについては何時頃から食べるようになったかは判らないが、旧来は家庭で食べることが少なく、中華そばと言って食堂で食べるのが一般的であった。そしてラーメンを好む人が多かった。中華そばと言うから中国が起源かと思っていたが、元は正油味のソバで日本が発祥と言う。昭和33年にインスタントラーメンが発売されたと言うが、この瑞穂地域に入ってき たのは昭和30年代の終わり頃だと思う、お湯のみ有れば簡単に食事ができる事から、今では各家庭の食事の1つ形態と成っている。
そして、今では食事が洋風になり、バターやマヨネーズ等の脂肪の多いものが主体となり、かっては動物性蛋白質を取ろうと言っていたのが、反対に、現在では野菜を一 日に300グラム取ろうと言うようにまでなった。
食事の食べ方についても、昔と今では大きく変わっている。原始時代は炉辺を囲んで器も無く手掴みで食事をしていた事であろうが、何時頃からお膳になったかは知らないが、昭和30年代頃まで家庭で来客がある時など、赤い漆塗りのお膳や御椀を出して接待していた様に思う。
この辺の一般的な家で、身内だけで食事する時は「箱お膳」と言う物を利用しており、個人個人に1つ決められた箱お膳が有った。これは30cm程の四角で深さは12cm程で蓋が付いており、この中に自分の食器一揃いを入れて置き、食事の時にはこの箱の蓋を裏返して台として、その上に食器を並べて食事をした。
この箱お膳については我々農民だけでなく、武士階級でも28石取りの下級武士の場合は使用していたらしく、かってNHKで放送されたドラマにも映し出されたのを 覚えている。
食事が終った後の茶椀はお湯を注ぎ、沢庵などの漬物で茶碗の中に付いている粕を綺麗に洗い落とし、お湯と一端に飲み込んだ。
したがって、食事ごとに茶碗を台所で洗うと言うような事がきかった。これは現在の様に水道が無いために、掛け流しの水がなく、井戸の水を「つるべ」で汲み上げてから、水を使うと言う大変さと、茶碗の中に少しでも食べ物を残さないと言う、節約の精神から来ているのではないだろうか。この茶碗をお湯で洗うと言う習慣は現在でも禅寺で行われていると聞いている。
昭和20年代には、この箱お膳が食卓にかわり、家族全員が1つの台で食事をするようになった、しかし、まだ床に座ったままの食事であったが、昭和40年頃から家の新築が多くなるのに伴って、腰掛け式のテーブルに変わるようになった。各家庭にテーブル方式が行き渡ったのは、平成時代になってからではないだろうか。
戦争が無くなり、食生活も変わり、医療も進んだろと考えられるが、我々の平均寿命 もかっては人生五十年と言われていたが、次第に仲びて長生きするようになった。

例えば、
昭和10年には男45才、女46才であったものが、昭和34年には男65才となり、女70才になった。さらに現在では男79才、女85才と云われるようになった。
我々が毎日食べている物の多くが、殆どが外国からの渡来品である事に気がつかな いまま、今まで過ごして来たが、日本での古くからの食べ物とは何であったので有ろうかと驚く程、外国からきたものが多い。
米については既に述べたが、大豆やヒ工、或いはキビ、その他、麦、大根、ウリ、イモ、セリ、ニラ、人参は縄文時代の今から3千〜5千年程も前から我が国に有ったと言われるが、その他のものに付いては外国から来た物が多い。
一例を挙げると下記のようになる。
- 桃 縄文時代に中国から伝わり、兆とは妊娠を意味すると言う
- 里芋 稲作以前の掲文時代に中国から
- そば 養老6年(722)に渡来
- 豆腐 (730)
- ナス 750年頃、インドから中国を軽て
- 砂糖 8世紀に薬として度来
- 菊 奈良時代に中国から渡来
- うどん 奈良時代に中国から伝来して平安時代に一般に暑及
- 梅 奈良時代に中国から伝わり、梅干としては10世紀に伝わり、江戸中期に一般に広がる
- ユズ 奈良時代に中国から伝わる
- 牛蒡 平安時代初期、ヨーロッパーアジア
- 菜の花 平安時代、ヨーロッパー中国
- キュウリ 10世紀に中国から
- 蓮根 鎌倉時代に渡来
- 納豆 1288中国
- 甘薯 1597年、安土桃山時代、中国一沖縄一九州 長沢では明る20年頃から栽培始まる
- 馬鈴薯 1598年、ジャワから伝わり、ジャガ芋と言われる
- トウガラシ 1600年頃、ポルトガル人説と朝鮮説がある
- 南瓜 1600年、カンボジャ
- 孟宗竹 1736年、琉球一薩摩
- ほうれん草 江戸時代
- 白菜 明治8年(1875)中国から3株、大正時代になって一般に普及
- りんご 明治初期に伝わり、原通はコーカサス地方
- 苺 オランダー長崎
チンゲンサイの渡来は1972年と言われ、比較的新しいが、これからも外国からの、新しいカタカナ文字の野菜や果物が、多く入ってくる事であろう。



(「瑞穂の昔」より 参考文献